メール占いのバイトに入って2ヶ月で人格破壊された話

はじめまして、不可逆です。

突然、生活の手応えのなさがどうしても耐えられなくなって、誰かに文章を読んでもらいたい、という気持ちが急に芽生えてきて、このアカウントを作りました。

会社に勤めて、そこそこの仕事をこなしていても、自分がなにか価値のあることをしているようには少しも思えないし、経済を回すのに役立っているという実感も得られなくて、生きている手応えが全然ないんです。

それに、会社の人とばかり喋っていると、会社に特有の言葉が私の体に染みついていくような感じがします。言葉づかいや語彙が、会社用にチューニングされていくような。

そんなことをもやもやと考え続けていたら突然、文章を書いてみよう、と思いつきました。私は私の言葉を持ち続けるために、文章を書こう。

たぶん私は1万人が読むようなものは書けないけれど、例えば100人くらいのためならば、役に立つ言葉を書くことができるんじゃないか、という根拠のない自信がどこからか湧いてきました。

私はどちらかというと根暗でコミュ力の低い人間だけど、結局最後はラブじゃん? って思っていて、根っこのところでは愛の力を信じているんだと思います。愛は伝えてなんぼです。私は愛を伝えられるように、自分の言葉を持ち続けなければならない。そのためにこのnoteは書いていこうと思っています。

今回は自己紹介がわりに、いつかどこかで書こうと思っていた話をしてみます。私がメール占いのバイトを始めて、たった2ヶ月で人格が破壊されて辞めた話です。

まあ、ちょっと重い話だけど、私にとってはこれが最初に話さなければいけないことだと思う。よかったら読んでいただけると嬉しいです。


Mさんとの出会い

数年前のことです。きっかけは、マッチングアプリで知り合ったMさんという人でした。

Mさんは知的で物静かな、どことなく浮世ばなれしているような人で、江戸川乱歩が好きだと言っていました。私も『鏡地獄』が好きだ、と言ったら話が盛り上がって、すぐに仲良くなりました。

当時、私は映像制作会社の制作部をしていて、狂ったぜんまい人形みたいにハードスケジュールで働き続けて、最後にはぜんまいが完全に壊れてしまいました。

朝、会社の玄関先で足が完全に動かなくなって、会社に一歩も入れなくって、その場にしゃがみこんでしまいました。

私は泣きながらMさんに電話をかけました。Mさんは「大丈夫だよ、無理だったら行かなくてもいいんだよ」と言ってくれて、電話を繋いでもらったまま、来た道をなんとかもどって家に帰りました。

私はそのまま仕事をやめて、それからしばらくしてMさんとお付き合いすることになりました。

そしてMさんは、無職になった私に、よかったら同じ職場で働いてみない? と仕事を紹介してくれました。

MさんはWEBライターの仕事をしていると言っていました。私も文章を書くことが嫌いではなかったし、恋愛関係になって気が緩んでいたこともあり、詳しく話を聞かないまま面接を受けに行ってしまいました。そこで説明されたのが「メール占い」のライター業務だったのです。

メール占いの実態

品川区にある高層ビルのワンフロア。広い部屋におそらく200台以上のコンピュータが等間隔に並んでいて、アルバイトのライターたちがメールの返信を黙々と打っていました。

なぜ前もって説明してくれなかったのか、とMさんを問い詰めると、「守秘義務があったんだ」と言われました。あまり納得はできなかったけれど、とにかく仕事が欲しかったので、なし崩し的にその会社でアルバイトとして働くことになりました。

働き始めてすぐわかったのは、メール占いが悪質な搾取ビジネスだということです。メール占いといえば、一通いくらでお客さんが相談を送り、それに対して占い師から返事が来る、というイメージがありますが、それはビジネスモデルのほんの入口部分にすぎませんでした。

ひとたび会員になると、定期的に占い師からのメールが届きます。例えばこんな感じです。

お久しぶりです。占い師の〇〇です。突然ですが、最近なにか迷っていることや、決めかねていることはありませんか?

なぜかと申しますと、数日前から大地の気の流れが変わってきているのです。その原因を探っていたのですが、なんというべきか……。
自分の感覚がおかしいのかと何度も疑いました。それくらい滅多にないことなのですが、この変化の渦の中心には、どうやらあなたがいるようなのです。

以前にもお伝えした通り、あなたの守護霊は人並み外れた特別なパワーを秘めています。それが今、なにかをきっかけに開花しようとしている……?

なにか思い当たることはありませんか? 最近あった変化、もしくは変化のきっかけになるような感情や、迷っていること。
例えば、毎日使っている道具を変えてみたいとか、新しいことを始めてみたいとか。それくらい些細なことかもしれません。大事なきっかけは、よく目を凝らさないと見落としてしまうものなのです。

しかしそのささやかな変化こそが、あなたの内なるエネルギーが「新しい自分になりたい」というメッセージを放っている合図です。
ですから、今ここで正しい変化を遂げ、あなたの守護霊のパワーを完全に開放してあげることが、最も輝かしい未来を引き寄せるためには欠かせないのですよ。

大地の気の流れを変えてしまうほどの大きなエネルギーのうねり……。これほど巨大な変化の前兆は私も数えるほどしか感じたことがありません。これがうまく行けば、あなたの運勢に龍脈のエネルギーが流れ込み、途方もない幸運を引き寄せることができるでしょう。

もちろん、ここでこのチャンスを掴むかどうかはあなた次第です。選ばなかったからといって運勢が今より悪くなってしまうわけではないので、プレッシャーに感じる必要はありません。思うままに、自分の心の声に従ってください。
私にできることはそのお手伝いをすることだけですから。

もしお手伝いさせていただけるのなら、まずは、最近身の回りに感じている変化の予兆について、どんなことでもかまわないので、返信でお聞かせください。

あなたがよい未来を選び取ることを信じていますね。

不可逆がうろ覚えで再現したメール占いの文章

こんな感じで、言葉巧みに「あなただけ」が特別だからメッセージを送っているんですよ、という内容のメールが届きます。もちろん実際には一斉送信で全員に同じ文面のメールが送られているのだけれど、受け取る方はそんなこと知る由もありません(薄々気づいている方も少なくないと思いますが)。

自分のためだけに占い師(もちろん実在しない)がわざわざメールを書いて送ってきてくれていると思っているわけなので、ユーザーは高確率で返信をします。返信は一通送るごとにお金がかかります。たしか一通あたり1500円か2000円くらいの相場でした。

ユーザーが返信で「最近感じた変化」について書いて送ってきたとします。その次も誰かが手動で返事をするわけではなく、2通目の返信用、3通目の返信用……と、テンプレートが用意されています。相手がどんなことを書いて送ってきても対応できるように、あらかじめストーリーが作られているのです。

なるほど……! そのような変化があったのですね。これで腑に落ちました。私の見立てでは、それが今回のエネルギー変化のきっかけと見て間違いありません。

あなたが感じた変化と、そのときに生じた迷いや困惑といった感情は、あなたがいまサナギのような状態にいることをあらわしているのです。いまあなたは、羽化の時を待ちながら、どんな蝶になろうか想像を巡らせている段階です。

(中略)

それでは、もっとあなたの深層心理に働きかけていきましょう。まず目を閉じて、自分がサナギになった想像をしてください。今はじっと動かずに固まっているけれど、いつか大空へ羽ばたくためにじっとこらえて、その時を待っている。あなたはそんなサナギです。

そして次に、どんな蝶になりたいのか、その大きさやかたち、色をイメージしてください。考えようとするのではなく、目の奥に自然と、一番あなたらしい蝶の姿が浮かんでくるはずです。それを捉えてください。
蝶の姿が見えたら、「私は蝶になりたい」と目を閉じたまま三度唱えてください。

ここまでの手順が済んだら、このメールに返信で「終わった」と報告してください。そうすれば、準備は完了です。本格的にあなたと龍脈の気を練り合わせるための儀式を始めることができるでしょう。
急ぐ必要はありませんから、じっくり自分と向かい合ってみてくださいね。

不可逆がうろ覚えで再現したメール占いの文章(2通目)

こんなふうに、適当な相槌を打ってすぐ次の話題に移るので、相手がなにを言ってきても関係ないわけです。このようなテンプレートをコピペして返信し続けるのが基本的な業務でした。

テンプレートにはだいたい8〜10往復ぶんの返信が含まれています。ユーザーは最初はすぐに「運を引き寄せる」方法を教えてもらえると思って返事をするわけですが、こうしてください、次はああしてください、と次々指示を出され、なんだかんだとやり取りが引き伸ばされます。いつまで続くのかわからないけれど、途中でやめたらこれまで使ったお金が無駄になる、という感情から、ユーザーは最後まで返事をし続けてしまう。結局一回の占いを最後まで聞くために数万円がかかるわけです。

インスタント"救い"

新人はひたすらテンプレートをコピペして送り返すのが基本の業務なのですが、私は出勤初日に行われた文章能力を測るためのテストの成績がよかったらしく、テンプレートがうまくはまらないようなイレギュラーなメールへの個別返信対応も任せてもらえることになりました。

ベテランになると、テンプレートを作ったり、新しい占い師のキャラクター設定などを考案することもできます。Mさんは、私が配属されたチームで一番ベテランのライターでした。

オカルトに対してあまり良い印象を持っていなかった私にとっても、Mさんが作るストーリーはとても面白く、次第にMさんの新作を読むのが楽しみになっていきました。癖のある占い師のキャラクター、予想外の展開、美しい文章。ときどき胸にまっすぐ刺さるような、まるで自分に向けて言われているかのような「本物の言葉」がMさんの書くメールにはありました。

お客さんを騙しているという後ろめたさはもちろんありましたが、Mさんと、Mさんが書いたものを信じることで、なんとかそのもやもやを打ち消そうとしていました。嘘だとしても、これは必要な嘘なんだ。お客さんにはなにか心の拠り所が必要で、それを作って売ってあげている、これは良いことなんだ、と。

Mさんが新しいシナリオを書き下ろすと、一通目のメールがユーザーに配信されます。しばらくすると、何割かの「釣れた」ユーザーから返信が届きます。Mさんがでっちあげた嘘っぱちの「福を呼び込む方法」を知るために、餌に群がる鯉みたいにわらわらと返事が届くのです。

たいていのユーザーは、素直にこちらの指示に従って想定内の返事を送ってきます。個別に対応が必要な想定外の内容を送ってくるのはごく一部です。しばらくすると「要個別対応」のラベルが付いたメールの差出人はいつも見慣れた名前ばかりだということにも気づきました。

「要個別対応」メールの差出人の多くは、メール占いにお金を注ぎ込みすぎて困窮しているヘビーユーザーでした。

「今までずっと先生に従って来て、たくさんの福が集まって来ていると言っていただいて、それを信じたいのに、ちっとも生活が良くなっているような気がしないんです」「お金ばかりどんどんなくなっていって、先生のことを疑っているわけではないのですが、とにかくずっと苦しいのです」「今回の鑑定もいつまで続くんですか? 最後までお支払いできるかどうか……」

ユーザーの大半は40代〜60代の独身女性です。その中には生活費を切り詰めたり、借金をしてまで占いにお金をつぎ込んでいる人も珍しくありません。

「本当に信じていいんでしょうか?」「いつまで待てばいいんですか?」

そんなメールに、私は返事をし続けました。鑑定をしなかったからといって、運勢がいまより悪くなることはありませんよ。鑑定はお金に無理のない範囲ですれば十分ですよ。運気の流れを実感するのは難しいけれど、幸運は着実にあなたのもとに集まっていますよ。

彼女たちは、この占いが全部ウソであるということにもほとんど気づいていたように思います。ただ、それを認めることは、自分がお金を騙し盗られていたことを認めることでもあるし、心の支えを完全に失うことでもあるから、本当は全部でたらめだとわかっているのに、それを認めることも、きっぱりやめることもできないのです。

一番苦しいのは心が矛盾を抱えているときです。「メール占いなどに頼っている私は間違っているのかもしれない」という悩みが何度も送られてきました。それを、よりによってメール占いに相談せざるを得ない(他に相談できる相手がいない)心境を思うと、とても心苦しかったです。

しかも、それに対して「そんなことありませんよ、あなたは間違っていませんよ」と返さなければならないことが、私の心にも矛盾を作るのでした。

メール占いは、無条件で相手を肯定します。誰からも肯定をされたことのない人間には、この肯定は麻薬と同じくらい効きます。すると、他の人の真っ当な意見など耳に入らなくなって、とにかく無条件で自分を肯定してくれるメール占いの言葉にばかりとらわれるようになるのです。

これは「インスタント"救い"」だ。と私は思いました。まるでドラッグの製造工場で働いているみたいな気分になってきました。

せめて私は、個別対応が必要なメールひとつひとつに対して、空っぽな言葉の麻薬を送りつけるのではなく、真摯に、心の底から相手の幸福を願って返事を書こうと決めました。

私は心の底から祈りました。あなたに幸福が訪れますように、と祈りながら、そのとおりにメールに書いて送信しました。

かおさんとのやりとり

中でも印象に残っている方がいます。”かお”さんというユーザー名の、40代の女性でした。かおさんはいつも、こちらが答えるように指示したこと以外のことを書いてくるので、特に面倒なユーザーとして会社のチーム内で認知されていました。私はかおさんからのメールが届くと、できるだけ進んで対応するようにしていました。

2ヶ月間、出勤している日はほぼ毎日かおさんとやりとりをしました。一日一通以上届くこともあったので、おそらくその期間だけでも十数万円のお金を費やしていたはずです。

かおさんは美しい文章を書く人でした。彼女が自分の抱えている孤独と苦しさについて書いた文章は、いつも私の心を撃ちました。

かおさんは「私は幸せになる資格が無い」と何度もメールに書いていました。どんなに努力をしても報われず、自分の能力の低さに失望し、成功できないのならばせめて人一倍苦しまなくてはいけないのだと思い込んでいました。苦しみが足りないということは努力が足りないということだから、努力すらできない自分には存在価値がない……。

「○○すればもっと幸せになれる」というメッセージは巷にあふれていて、それがさらにかおさんを苦しめていたのでした。どのメッセージに従ってもうまくできず、他の人みたいにちゃんと「幸せになる」ことができない。やっぱり私はだめなんだ、だめだから苦しまなければならないんだ……。
そんなことを彼女は何度も何度も語りました。

私は毎日、本気で彼女への返事を考えました。占い師になりきって、彼女が求めている言葉を必死で考えて、それを書いて送りました。

でも結局私が伝えたかったのは、「あなたはあなたでいればいい」という、ただそれだけのことでした。こうした方がいいとか、ああしなければダメだとか、そんな言葉を真に受けて苦しんだり、自分を苦しめたりしてほしくなかったのです。

私がそういう思いを込めて書いた言葉のいくつかは、たしかにかおさんに届いたのではないかという実感がありました。

やがて、かおさんは徐々に自分の体のことや精神状態について話してくれるようになりました。しかし、それを聞けば聞くほど私には、かおさんは病院かカウンセラーに相談したほうがよい状態であるように思われました。

Mさんから注意を受けることが増えてきたのはその頃でした。

Mさんとの衝突

Mさんとはお昼ごはんを毎日一緒に食べていました。一度、会社の近くのハンバーガショップで一緒にお昼を食べていたとき、「なんでこの仕事をしてるんですか?」とMさんに尋ねたことがありました。

「文章を書いてお金をもらえるだけで十分だからね」とMさんは言いました。Mさんは仕事の傍ら、小説も書いていました。

「後ろめたいとかは思わないんですか?」と私はさらに聞きました。

「文章を売ってお金を稼ぐことっていうのは、所詮水商売みたいなものなんだよ。求められているから売る。そこに恥ずかしいとかは思わないようにしてる」

思わないように「してる」って、そうやって自分に思い込ませないと、折り合いがつかなかったってことなんじゃないの? と私は思いました。

Mさんの書いたテンプレートを読むのが楽しみだったのに、それもだんだん苦痛になっていきました。洒落たレトリックも、文学作品へのオマージュも、そういう小手先のテクニックすべてが鼻につくようになりました。それは読む人に向けて書かれた言葉ではなく、ただ自分の文章能力を見せつけるためだけに飾られた言葉でした。いかにもご利益のありそうな言葉を求めている人にとっては、たしかに効果的だったかもしれません。けれどそれは「インスタント"救い"」でしかありませんでした。

食事の最中も、議論が白熱して険悪な雰囲気になることが増えました。なんでMさんはこの仕事を私に紹介したんだろう、と思うと悲しくなりました。私は精神的に限界でした。オフィスにずらっと並んだコンピュータで黙々とメールを売っている人たち全員、狂っているのではないかと思いました。なぜこんな仕事を平気な顔してできるのだろう。私がおかしいんだろうか。自分が合わない場所に来てしまっただけなんだろうか。

ある日、私は仕事中にMさんに呼び出されました。Mさんのディスプレイには私がかおさんに送信したメッセージが表示されていました。

心当たりはありました。

「"カウンセリング"のことですか?」と私は言いました。私はかおさんに、あくまでさりげなく、スピリチュアルの世界観を壊さないよう慎重に、「困っていることを誰かに相談したかったら、カウンセリングという選択肢もありますよ」と送ったのです。怒られるだろうな、とわかっていました。しかし、そのときは、他のどんな言葉を書いても嘘になってしまうと感じたのです。

「なんでこんなこと書いたの?」とMさんは優しく言いました。

「だって、かおさんはどう考えても病気だし、こんな占いじゃなくて、ちゃんと誰かが話を聞いてあげないと」

「お客さんにそんなに肩入れしちゃだめだよ」

「わかってますけど、でも仕事がどうとかじゃなくて、病気かもしれなくて苦しんでる人がそこにいるんですよ? それは放っておけないじゃないですか」

「あのね」とMさんはため息混じりに言いました。「かおさんはどう見ても病気だよ。それはみんなわかってる。だからこそ心の拠り所が必要で、うちのサービスが彼女の救いになっている。もちろん我々にとってもかおさんは大事な太客。互いに互いを必要としている。そういう微妙な関係性で成り立ってるんだよ」

「あの、よくわかりません……。かおさんの病気が治ったらお金を落としてくれなくなるから困るってことですか? まともでいられない人とか、冷静な判断ができなくなっている人からお金を搾り取るのがうちのやり方って、そういうことですか?」

「言いたいことは、よくわかる。けど、ここは会社なんだよ。社員を抱えていて、彼らに給料を払って家族を養っていくためにも、利益を出さなきゃならない。君はまだ若いからしょうがないけど、綺麗事だけじゃうまくいかないって少しは学んだほうがいい」

私は、Mさんという人間を根本から見誤っていたことに気づきました。Mさんがこの会社で働き続けているのにはなにか理由があると、私は信じていたのです。こんな売文業の底辺みたいなところでMさんが文章を書いているのは、こんな場所だからこそ言葉で救える魂ががあると信じているのだと。言葉の力を信じ、他者のために言葉を使う、そのためにここにいるのだと。

しかしそうではなかったのです。Mさんはもうなにも感じていませんでした。かおさんのメールを読んでも、Mさんの心にはもう波風ひとつ起きないようでした。きっとMさんももう壊れてしまっているんだ、と私は思いました。

退職

Mさんの説教から開放されてデスクに戻ったあと、私は一文字も文章を打つことができなくなってしまいました。だんだん涙が抑えきれなくなりました。とにかく返事をしなければ、と思っても、手がまったく動かないのです。もうだめだ、とはっきりわかりました。なにかが急に崩れ落ちました。

私はそのまましばらく、どうしようもできずにぼろぼろと泣き続けました。「帰ります」と言えばいいだけなのに、それを言いだすまでの数十分が永遠のように感じられました。なぜMさんは前みたいに「大丈夫だよ」って言ってくれないのだろう。そればかりがずっと頭の中をぐるぐるしていました。

時間をかけてようやく立ち上がって、リーダーのところへ行って、辞めます、と言いました。

悔しくてたまりませんでした。なんて私は無力で、無能で、社会不適合者なんだろう。でも、やっぱりそれでも優しさだけは失わずにいたい。おまえらみんな狂ってるよ。

電車の中で涙が止まらなくて、すごく恥ずかしかったです。私は逃げることしかできなかった。救いを求めていた、あの人たちは私がいなくなったあとも苦しみ続けるんだって思うと、とても苦しかったです。

お昼すぎに退社して、新宿駅でどこへ行けばいいのかわからなくなって、コンビニで9%のお酒を買いました。道端でそれを一気に飲んで、とにかく記憶をなくそうとしました。

いつの間に話しかけられたのか、気づいたら中国人観光客と意気投合して、寿司を奢っていました。そのときの私は異様なハイテンションだったと思います。

中国人がいなくなって、また私はひとりで駐車場の隅に座り込んで泣きました。気づいたら夜になっていました。

あれから何年も経ちました。私はiPhoneのメモ帳に書かれたいくつもの断片を見つけて、当時のことを思い出して、これを書き始めました。

最後に

いまだに、会ったこともない顔も本名も知らない女性のことを考えています。今でもあのときどうすればよかったのかわかりません。私は自分に正義感があるなんて思ったことありません。

でも私は、自分があそこでなにも感じずに働き続けられる人間じゃなくてよかったと思っているし、同時に、ああいう場所が社会には存在していて、いろんな人がそれにすがりながら生きているということを知ったことは、私の人生にとってとても大きなことだったと思っています。私にとって、これはただの災難な経験ではなくて、すごく意味のあることでした。

あのとき感じたことを忘れたくない。私は、私の声が届くかもしれない人に対して、ちゃんと語りかけようと思ったんです。そう感じたことを思い出して、そうだ、文章を書かなきゃ、と思い立ったのです。

私立探偵フィリップ・マーロウの有名なセリフで「タフでなければ、生きていけない。優しくなければ、生きる意味がない。」というものがあります。

私はもっとタフになろうと思いました。この社会で、どうやって上を目指すかという話じゃなくて、どうやってこの社会であるがままに生き延びるか、という話をもっとしなければならないと思いました。

そういう話を、これからはしていこうと思っています。

というわけで、長くなりましたが、自己紹介がわりのエピソードでした。
これからどうぞ、よろしくお願いいたします。


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