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ドロップアウトしても死なない


能力主義は間違っている

今回は「ドロップアウト」について書いてみようと思います。特に、これから受験などを控えている学生の方に読んでもらえると嬉しいのですが、社会人の方にとっても無関係のことではありません。

ドロップアウトとは、組織や社会体制から脱落すること、落ちこぼれることを意味します。いまの世の中は激しい競争社会です。昔のように出自による身分の区別がないぶん、平等に見えるかもしれませんが、そこには能力主義(メリトクラシー)という別の不平等が隠れているのです。


能力主義が支配する社会の中で、ゴリゴリ働いて登り詰めていく自信がある人は、ぜひそうしてください。社会はあなたたちにかかっています。

しかし、そんな能力主義の社会で、自分は必要とされていないのではないか、無能で役に立たない自分のような人間に居場所はないのではないか、という孤独を感じてしまう人がいます。

そんなふうに悩む必要はないのです。なぜなら能力主義は間違っているからです。社会が間違っているのだから、そんな社会に適応できないからといって悲しむ必要はありません。

ここで伝えたいのは、タイトルにある通り、「ドロップアウトしても死なない」のだということです。

それどころか、ドロップアウトしたほうが、その後の人生を楽に暮らせることに気づいたという経験がある人は少なくないはずです。実を言えば、私も大学受験で挫折してドロップアウトした一人です。

これは全員にドロップアウトを勧めるものではありません。ただ、競争社会からドロップアウトしても人生は終わりじゃないし、好きなことをしながら生きていく方法なんていくらでもあるのだということを、頭の片隅に留めておいてほしいのです。


ドロップアウト経験談

他人の経験談などというものは大して役に立たないのが世の常ですが、それでも参考までに、私の経験談を伝えておきたいと思います。

私はもともと進学校に通っていて、大学の医学部を志望していました。しかし本当に医者になりたかったかというと疑わしく、自分が何になりたいかがわからず、家族の期待に応えて医学部志望と言っていただけだったような気がします。

理系クラスに入っていましたが、本当は文学や、創作的なことに興味がありました。受験シーズンもあまり勉強せずに本ばかり読んでいました。

結果、当然のように大学入試は惨敗。一年浪人して再チャレンジすることになりましたが、それでも私は受験勉強に対して本気になれませんでした。「なんだこれ?」という気持ちが拭えなかったのです。医学部に本気で入りたいわけでもないのに、勉強に身が入るわけがありません。

そんな浪人中のこと、同じく浪人していた友人から「ドロップアウト」という考え方を教えてもらったのです。学歴で人間の価値が決まるような競争社会なんて、こちらからNOを突きつけて、背を向けてしまったほうがいいのではないか、と。

私にはその考え方がスッと腑に落ちるように感じました。そして、同じ友人から、映画制作の方法を学べる学校があるという聞いて、その日のうちにウェブサイトを調べ、願書を提出したのです。

医学部を諦めて映画の学校に入ったことは、私にとって本当に良かったことだと思っています。なにが良かったのかというと、映画について学べたこと以上に、本気で人とぶつかり合い、意見を交わし、互いにとって切実なことを共有して考えるというコミュニケーションの経験を得られたことです。

映画を学ぶことは、高い給料を得るためにはなんの役にも立ちません。でも、よい人生をおくるために役に立つことをたくさん学んだという自負があります。

もし仮に私が医学部に入っていたら、もっと常識的で、真面目な人間になって、毎日忙しく働いて裕福な暮らしを送っていたのでしょうか。想像がつきません。負け惜しみではなく、そんな生活は今の自分には絶対できないと思うし、そちらを選ばなくて良かったと本気で思います。

何度も言うようですが、これはあくまで私の経験談でしかありません。誰にでも当てはまることではないし、人それぞれに適性や居場所があるのだから、参考になるとは限りません。

ただ、良い大学に入れなければ人生はおしまいだとか、負け組だとか、そういう思い込みを抱く必要はないのです。どんな場所でも学べることがあります。

それにまた、そこそこ良い大学に入ったとしても、上には上がいることに嫉妬し、学歴コンプレックスから逃れられない人もいます。でも、大学のランクは関係ありません。どんな場所であろうと、大事なことは、そこで出会った人たちからなにを学ぶことができたか、ということだけです。


能力主義の問題点

長々と経験談を書いてしまいましたが、能力主義のなにが問題かについても少し書いておこうと思います。

能力主義の社会では、優秀な者なら身分関係なく重要な地位につくことができます。逆に言えば、能力がない者は社会的に不要とされやすい思想です。

それは容易に優生思想と結びつきます。遺伝的に劣った人間は淘汰されたほうが良いので、優れた遺伝子をもつ人間だけが子供を残すべきだという思想です。

もちろん遺伝子には優劣などないので、優生思想は根本的に間違っています。優れている遺伝子や劣っている遺伝子があるわけではなく、今の社会に適応しやすいかどうかという違いがあるだけで、社会システムが変われば、どんな遺伝子を持つ人間にとって生きやすいのかも変わるからです。

能力主義は格差を拡大するという問題点もあります。教育にお金をたくさんかけられる家や、文化資本のある家に生まれた子は、貧しい家に生まれた子よりも有利です。こういった生まれの差は、努力によって覆すのは難しいことはみなさんよくご存知だと思います。しかも、豊かな家の子は高い地位を得てますます豊かになり、同じぐらいの階級の人間と家庭を築き、その子どもの世代でもまた格差が拡がります。


まとめ

このように格差が拡大していく中でも、全員が競争に参加しなければならないというプレッシャーが常に社会全体を薄く覆っています。しかし、それこそが思い込みです。競争に参加しないという選択肢もあるということをもっと共有していかなければなりません。もっと自由に生きていいのだということを、いろんな生き方をしている人たちが語っていくべきだと思います。

そのためには、このnoteのようなプラットフォームで、無名の個人が自分の人生について語ることは、同時代を生きる人のために、意義のあることなのではないかと考えています。名前の知らないどこかの誰かの人生を読むということは、型にはまった常識という呪いを解くための手がかりとなるかもしれません。

競争から脱落したら人生終わりではありません。そのあとも人生は続くし、なんだかんだで生きていけるし、そこでいろんな人と出会ったり、違ったことを初めてみたりして、想像もしなかったような人生が待っているかもしれません。そういう、予測すらできないような可能性がいくらでもあるのです。それだけ覚えておいてもらえたら十分です。

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