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失恋のトンネルから脱出できるか

(傷だらけの恋愛論 第九回)



恋の病には出口がない

今までにも書いてきた通り、「恋の病」には出口がありません。すべての出会いは傷で、その痛みをなんとかしたくて、相手の気持ちを確かめようと奔走し、激しく浮き沈みする気分に振り回され続けるのです。

幸福で衝撃的な出会いの惑乱が過ぎ去ればたちまち、恋は耐えがたいものになります。それが恋愛の特性だからこそ、恋する者の頭にはいつだってこのような言葉が浮かびます。「こんなことがつづくはずがない!

——しかしながらそれはつづく。永遠にではないまでも、少なくともかなりの間は。恋する者の辛抱強さは、したがって、辛抱の否認をこそ、そもそもの出発点としているのだ。

ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』「耐えがたい」

耐えられない! こんなことが続くはずがない! という叫びが、飽きるほど延々と繰り返されることこそが恋愛の特性なのです。


成就しない恋の病から逃れられない人はやがて、苦しみを消したい一心で、出口を探すようになります。身を引く、旅に出る、自分を犠牲にする、あるいは自殺する、等々、いろんな解決策が頭に浮かぶのです。

恋する者は、ちょっとしたことで「死にたい」という欲求に駆られます。その代表例とも言えるのがゲーテによって書かれた『若きウェルテルの悩み』の主人公、ウェルテル青年です。この作品は書簡体小説といって、ウェルテルとシャルロッテという女性がやり取りした手紙を読者が読んでいる、という形式で書かれています。

シャルロッテは婚約者のいる女性であり、ウェルテルは彼女に恋をするのですが、叶わぬ思いに絶望して、最後には自殺を遂げてしまうのです。


しかし、そのような「解決策」が本当に恋愛の出口だと言えるでしょうか。

わたしの想像する解決策は、すべて、恋愛体系自体の内部にある。身をひく、旅に出る、自殺する、いずれの場合にも、閉じこもり、立ち去り、死ぬのは、常にかわらず、恋する者なのだ。身をひくにせよ、立ち去るにせよ、死ぬにせよ、そこに見えているのは常に、恋する者の姿である。わたしが自分に命じているのは、たえず恋する者でありつづけながら、しかも恋するものではなくなることなのだ。〔…〕
「ぬけ出す」には、ぬけ出したいと思っている等の体系からぬけ出さなければならないだろう……ひとりでにすぎ去り、終りを告げることこそ、恋愛の錯乱の「本性」であって、それ以外はいかにしてもこれを終わらしめることはできないだろう(ウェルテルは、その死によって恋する者でなくなったのではない。ことはその反対なのである)。

同書「出口」

格式張っていてわかりづらい文章ですが、つまりこういうことです。

身を引く、旅に出る、自殺するなどといった解決策に思いを巡らすことこそ、恋愛の症状とも言える行為なのであって、そして身を引くにせよ、立ち去るにせよ、死ぬにせよ、その想像の中の自分は、「恋するがゆえに」身を引いたり、旅に出たり、死んだりしているのです。つまりそこに映っている自分はなおも、恋する者のままであり続けているのです。

気づかないうちにひとりでに過ぎ去っていて、あとからその終わりに気づく、というのが唯一の終わり方であり、それこそが恋愛の錯乱の「本性」だ、とロラン・バルトは言います。ウェルテルは、死ぬことによって恋するものではなくなったのではなく、永遠に恋するものであることを選んだのです。



傷を傷跡にするための「喪」

気づかないうちに忘れるのを待つ、と言っても、そこには「忘れる」という決意が必要です。決意したからといってすぐに忘れられるわけではありませんが、他のことへ意識を向ける気持ちがなければ忘れられないのもまた事実です。

しかし、この「決意」がまたひとつの苦しみを生みます。

恋愛のエネルギーはどこからやってくるのかというと、私の頭の中にある「もし恋愛が成就したら得られるはずの幸福なイメージ」が原動力です。

ところが、恋の断念を決意するということは、相手が私に囁いてくれるはずの愛の言葉や、私に向けてくれるはずの笑顔や、二人で過ごすはずの幸福な時間、といった「イメージ」の死を受け入れ、捨て去るということなのです。

そこでわたしは、この奇怪な喪のつづく間、相反する二つの不幸を苦しまねばならない。すなわち、相手が現前すること(本意ではないにせよ、それがわたしを傷つけてやまない)を苦しみ、しかもまた、相手が死んだこと(少なくとも、かつてのわたしが愛していたままの相手は死んだ)を悲しむのだ。

同書「追放」

相手はまだいつも通りに存在しているのに、同時に、私の中で私が愛していた相手は死んだ。その矛盾に苦しむことになります。自分の中にある希望的なイメージを捨て去ることこそが、恋を断念することであり、恋愛の喪に服すという決意なのです。

恋している頃は、欲望し、夢を見て、それを実現するために奔走していました。ひとつの幸福が私のすぐ目の前にあったのです。それは様々な事情でまだ実現していなかったに過ぎず、もうじきに現実のものとなるはずでした。しかしその「イメージ」はもはや失われてしまったのです。すると、そのあまりの静寂に、ますます「耐えられない!」と叫びたくなるのです。


それでも、これは忘れるためには必要な過程なのでしょう。とはいえ、忘れても古傷が痛むことがあるのです。

本当に傷が過去のものとなるのは、私の中で相手にまつわるひとつのイメージが死んだのと同様に、相手の中でもあるイメージが死んだのだということを、はっきりと理解できたときなのではないかと思います。いえ、それも本当の終わりではないかもしれません。断念したはずのものが、墓の中から再び姿を現すことがないとは言い切れないのです。

ある語がたえず立ち戻ってくる、「なんと残念なことか!」

同書「追放」



好きな人の測りがたさ

しかし、これがすべてではありません。

そもそも、恋愛の成就とはなにを指すのでしょうか。恋人同士になることでしょうか。しかし、その後の生涯をともにする恋人となることもあれば、すぐに破局してしまうことだってあります。何年も連れ添ったあとで破局すれば、再び苦しい恋の病に引き戻されることは避けられないでしょう。

なぜあの人は特別なのか。それは恋の対象が予測不可能性をまとった他者だからだ、ということは第二回から何度も述べてきたとおりです。恋する者の目には、相手が常に測りがたい独自性をもった人物として映るのです。


「あなたのここが好きだ」と、好きな理由を述べられるなら、それはその人を部分的に好ましく思っているだけで、本当の意味で恋しているわけではないでしょう。好きな人の「測りがたさ」とは、どう形容してもうまく表現できているようには思えず、どうやっても言語化から逃れてしまうほどの独自性です。それを相手に見出すことこそが恋なのです。

そのとき、相手が自分にとって輝かしい人間であるように見える一方で、自分が凡庸で、典型的なつまらない人間のように感じられます。


ただ、時としてこの不公平なイメージが中断されることもあるのです。私だって、あの人と同じように独自で強い人間であることができるはずだ、と。

そこにこそ、恋の病を確実に抜け出すためのヒントがあるのではないでしょうか。



名前のつけられない関係を築くこと

わたしは、真の独自性の場が、相手になければわたしにもなく、二人の関係にこそあることを見抜く。獲得すべきは関係の独自性なのだ。心の痛手は、そのほとんどがステレオタイプな関係から生じるものである。わたしはみんなと同じように恋をしなければならない、みんなと同じように嫉妬し、見捨てられ、望みを奪われなければならない。しかし、二人の関係が独自のものであるなら、そのとき、ステレオタイプは揺さぶられ、乗り越えられ、撤去される。そして〔…〕この関係内に、たとえば嫉妬は、もはやその所をえないであろう。

同書「アトポス」

ここに書かれていることがほとんど今回の結論と言っても過言ではありません。

好きな人はなぜ、私にとって独自性をもった人物として映るのか。それは、その人がもともと持っていた資質ももちろんあるでしょう。でも、その人は誰にとっても特別な人間として映るわけではありません。私がそう思っているのです。

そしてまた、恋する者が相手を「測りがたい独自性を持った人間」だと認めることによって、彼/彼女はよりその独自性を発揮するようになるのです。恋する者の前だからこそ、彼/彼女はより測りがたく魅力的な人間になる。

そしてその関係性によって、自分もまた、もっと独自で強い人間になることができる。相手にではなく、相手と自分の関係性の中に、そのような契機を見出すことが大事です。

真の独自性とは、どちらか一方の中にあるわけではなく、関係性の中にこそあるのです。

「心の痛手は、そのほとんどがステレオタイプな関係から生じるものである」とバルトは書いています。既存の「恋人関係」というステレオタイプに自分を当てはめようとするから、どこかでズレが生じたときに嫉妬や痛手を感じるのであって、独自の関係性を築き上げることができれば、嫉妬を感じることもなくなるだろう、というのです。


独自な関係性。それはつまり、名前をつけられない関係です。

「恋人」という肩書にこだわることは、ステレオタイプな恋人関係のイメージにこだわることと同じではないでしょうか。すると、恋人っぽいデートをしていないとか、連絡がマメじゃないとか、そういうことでやきもきすることになります。「私たちって本当に付き合ってるの?」と問い詰めるというのも、恋愛によくある型のひとつです。

しかし、「恋人っぽい」関係性を求める必要はどこにもないのです。できるだけ独自の関係性を作り上げること。それは互いの信頼の場になります。

それこそが、関係性が落ち着く、ということではないでしょうか。どのような関係もありえます。建前上は恋人同士だけれど恋人っぽくない関係性もあれば、別れたあと、友達なのかよくわからないけれど、ほどほどに仲の良い関係性に落ち着くということもありえます。

そうしてステレオタイプという固定観念を乗り越え、落ち着くことができたとき、もはや嫉妬を感じることもなくなり、傷が完全に塞がったと言えるのではないでしょうか。



今回のまとめ

恋の病に出口はありません。むしろ出口を求める姿こそが、恋する者の典型的な仕草なのです。

一般的にはそこから抜け出す方法は、徐々に忘れていくしかありません。ただし、そのためには忘れる決意も必要です。それもまた、苦しい試練となります。

もうひとつの望みがあるとすれば、名前のつけようのない独自の関係を作り上げることです。他のどこにもない独自の関係であれば、それが普通じゃないとか、物足りないといったことで思い悩む必要はなくなります。落ち着くことのできる、名前のついていない関係性を見出すこと。それは交際関係にある恋人同士にとっても、うまく付き合っていくための重要なポイントではないでしょうか。


さて次回は、前回の投稿で少し触れた「占有願望」について、詳しく書いていこうと思います。それでは、このへんで。

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