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いま、僕たちは音楽に何を求めるのか?

古くから人々の生活に根付いてきた音楽。今では街中で無数の音楽たちが腕を振るっています。音楽に囲まれて生きる僕たちは、彼らに何を求めているのでしょうか。


音楽って何者?

「音による時間表現」「律動、旋律、和音の3つを構成要素とするもの」など、音楽には様々な定義が存在していて、それが音楽行為となると「作曲」「演奏」「鑑賞」の3種類に分けられます。そして本題である”いま、僕たちは音楽に何を求めるのか”についてですが、その答えは人々がこれらの音楽行為をする理由にあるはずです。なぜ人々は音楽を作曲して、演奏して、鑑賞するのでしょうか。

音楽行為がデザインであり、アートだから。

僕たちが音楽をする理由は、音楽がデザインであり、アートであるからでしょう。「は?」と思う方が大半を占めているかと思いますが、まあまあ、そう焦らないでください。まず、ここではデザインとアートの定義を以下のようにします。
デザイン:相手に特定の表現を伝えるための行為。
アート:相手に表現の感じ方や捉え方を投げかけ、そこに答えが存在しない行為。

設計や芸術、DsignやArtとはまた違ったものであることをご理解いただければそれでいいです。では、音楽行為にこの両側面が存在しているというのは、どういうことか音楽の生い立ちと共に、説明しましょう。


最初、音楽行為はデザインだった!

音楽の起源は未だ定かではありませんが、現時点で1番初期の音楽と言われているのは「歌」です。神に感謝する猟師たち、雨乞いをする農民、親族の死に冥福を祈る遺族。その側に音楽が、歌があったことは想像に難くないでしょう。初期の音楽にはその意図が明確に持たされていました。誰に何を伝えるための音楽か。これが明確でした。そして音楽が表現を伝えようとする対象は神や故人といったもので、人間ではありませんでした。したがって、鑑賞するという音楽行為がされていなかったのです。現代の音楽と一番大きく異なるのはこの点でしょう。つまり、鑑賞者のいない音楽においてデザインされない音楽は存在しないのです。

途中、アート化する音楽行為

作曲、演奏を通してデザインされた音楽は多くの人間や文化と擦れ合った結果、鑑賞者と遭遇することになります。加えて、十人十色の感受性を持つ不特定多数の人間が鑑賞者になると、時に音楽はその作曲者や演奏者の思いも寄らぬ感じ方や捉え方をされるようになります。これが音楽行為におけるアート要素の目覚めです。また、鑑賞者の出現はアート要素を目覚めさせるだけではなく、製作者と鑑賞者という立場の二分化も生み出しました。この二分化は音楽がデザインとアートの両側面を持つことに深く関わります。

音楽は製作者をアートし、製作者はその音楽で鑑賞者をデザインさせ、鑑賞者は音楽とアートする

「音楽は製作者をアートし、製作者はその音楽で鑑賞者をデザインさせ、鑑賞者は音楽とアートする」。音楽がデザインとアートの二面性を持つ理由はまさにこれです。
音楽は製作者に対して非常に強いアート性を持って寛容に接してくれます。真っ白なキャンバスを持って「いつでもなんでもやってくれていいんだよ」と言わんばかりに寛容です。製作者はこの真っ白なキャンバスにあの手この手で色を、形を、表現します。一方、鑑賞者はその音楽を聴くことになるわけですが、前述の通り、どんなにデザインされたものでも鑑賞者の前ではそのデザインももはや意味を為せません。何が聞こえて、何を聴いて、何を思うのか。音楽を聴いたあとに描く感想文に、罫線はありません。


では、僕たちは音楽に何を求めるのか?

答えは「デザインをする場所、アートをする場所」です。
例えば、音楽で日常をデザインしてみましょう。朝、コーヒーを飲みながらかける曲は明るい曲調のカントリーにしますか?一日よく頑張った日の帰り道には、ベースが強く効いたR&Bで、少し音量をあげてみたりして。
例えば、音楽と日常をアートしてみましょう。いつもは聴かないクラシックを聴きにコンサートホールに行って、感じたことと音楽評論家の解説とを比べてみませんか?そこに相違点が生まれる原因は知識の差でしょうか?それとも...?

もちろん、デザインする場所やアートする場所は音楽のみではありません。言葉を紡いだり、絵を描いたり。
ただ、音楽はデザインとアートをするのに一番身近で手軽な存在だと僕は思います。何気なく口ずさんだ一小節も、赤ちゃんに歌う子守唄も、音楽です。お経の中にも音楽はあるらしい(へえ〜)。だから僕たちは音楽を楽しむんじゃないでしょうか。だから僕たちは音楽にデザインする場所、アートする場所を求めるのではないでしょうか。


終わりに

この年末、僕は案外やることリストをいいペースで消化できているので、ボケエっと思ったことをnoteに落としてみました。
読んだ方ならお分かりいただけたと思いますが、エヴィデンスがある話でもありませんし途中で言ってることがはちゃめちゃになってると思います。核心に迫られているのか、書いてる自分でも分からねえ...。ゴリゴリの持論です。でも何年後かに自分でこれを読んだ時に、懐かしいなあって思えたらそれでいいなと思いつつ、終わろうと思います。

読んでくれた人ありがとう。

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