下書きを消せ
最近、noteの下書きが積み上がってきた。
もったいないと思いつつ、今日しか書けないことや表現できないこともきっとあるだろうにそれを書かず、もはや熱量の失われた文章をいじるのはなんだかもったいないことをしているような気がしてしまう。
*
何気なく書いた一文が気に入って、これをぜひ使いたい、と高揚するときがある。
でもそういう"際立った一文"はたいてい、先走っていて、今書いている文章の文脈に全然合わなかったりする。
でもその一文が気になって、使いたくて、むりやり文脈をつくってみたりするけどだいたいうまくいかない。
*
たぶんなんだけど、下書きにたまりやすいのってこういう"一文"にひっぱられた文章だと思う。
「言いたい」の気持ちが先行してて、そこに「それを書く必然性」とか「伝えるべきという使命感」みたいなのがまだ欠けている。だから完成しない。
書きかけの文章を読んでいると、おもしろいくらいにそういう"一文"がみつかる。
ああ、これを書いていたときの自分は、この一文を言いたかったんだな。でも言い切れなかったんだな。と、ちょっと愛おしい気持ちになったりもする。
*
下書きひとつにつき、そういう"一文"がたいていひとつはみつかる。
つまり下書きひとつにつき、言いたいことがひとつはあるということだ。ただ、加工に失敗している。
加工はできていないけれど、発掘はできている。原石は回収できている。
回収された原石は、ちゃんと自分の中にある素材箱に収納される。
だったら本当は大丈夫なのだ。必要なタイミングがくればちゃんと、いちばん自然な形で、自分の手から、あるいは口から、きれいに加工されて出力されるだろう。
ああこの一文はここで使われるべきフレーズだったんだ、というタイミングは必ず訪れる。
でも下書きに縛られていると、その一文はもしかしたらいちばん気持ちのいいタイミングで取り出せないかもしれない。
書き上がらない下書きは消してしまおう。未完の文脈から、その一文を開放して、素材箱に戻してあげよう。
その一文がいちばん際立つタイミングが訪れるのを、楽しみに待とうではないか。
この記事が参加している募集
読みたい本がたくさんあります。