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らせんの花

私の実家には庭とは名ばかりのただっぴろい敷地があり、半分は車を停めやすいように砂利が敷き詰められていて、もう半分には芝が敷かれていた。小さいころ私はこの庭をうろつくのが好きで、ちょうちょやバッタを追いかけたり、東側にある大きな栴檀の木に集まるクマゼミを捕まえたり、発育の悪い松の幹にくっついているカミキリムシを眺めたりして過ごしていた。

毎年5、6月にはブロック塀で道路から視線を閉じられた北側の隅に、赤いグラジオラスやアマリリス、純白のテッポウユリが次々と大きな花を咲かせた。家族に園芸の趣味はなかったから、ずっと前に誰かが気まぐれに球根を植えたのだろう。

庭の芝は私たち姉弟に踏みつけられ、大人からは放っておかれているわりに不思議と緑色を保っていた。ときおり、芝の根強さをかいくぐり居場所を見つけた小さな野草の花が咲く。それらを見つけるのが私の楽しみのひとつだった。

グラジオラス等と同じ時期に花を咲かす野草に、ネジバナがあった。芝のように細身な出立ちのすっと伸びた茎に、等間隔にぐるりと巻きつく小さな小さなピンク色の花。ネジバナという名は、畑にいた祖父か、仕事から戻った父だかに教えてもらった。なるほど、ひっくり返した螺子のような見た目から付けられた名なのだろうと思い、すぐに名前を覚えた。

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庭で見つけるたび、じっと見入った。ネジバナは花の部分だけでなく茎も途中から2つに分かれて空に向かって編まれている。花は下のほうが古く、上のほうが新しいというのは、グラジオラスと同じだ。

もう少し大きくなってから、螺旋階段を覚えたときもDNAの配列を知ったときも、私の頭にまず浮かんだのは形がネジバナに似ているということだった。学生の時はそれらの単語にぐるりぐるりと上に向かう花のイメージがついてきていたけれど、いつのまにか、螺旋階段は螺旋階段でしかないし、DNAはDNAそのものとして受け入れていた。

実家を出てからネジバナと再会したのは、最近、仕事場に行く途中の川沿いの遊歩道でのこと。芝のあいだにちらりと見えた姿にもしやと近づくと、それは間違いなくネジバナなのだった。

庭で過ごした初夏の記憶が次々に思い出されて、自分でも驚いた。ここは私の故郷から海を隔て遠く離れた東京で、普段からいかに違うかを意識してばかりだというのに、まるで地続きみたい、なんて簡単に感動しそうになりながら、違う、と気づく。

続いているのは、私だ。あの庭にいた私と、仕事に向かおうとしているいまの私。自分の一貫性のなさを自覚しているので、こんな些細な事でも、今の私に繋がっている一部だということに勇気づけられ、肯定的な気分になる。

しかし、大人になった私が改めてネジバナに出会いなおしていちばんに思ったのは、「アスパラの穂先みたいだなあ」ということ。どうやら、小さいころに比べると、食い意地の方面に伸びしろがあったみたいだ。
…ぐう。(おなかの音)


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