【雑記】美しさとは2

先日の投稿では美しさに関する疑問や考えをとりとめもなくぶちまけた。

さて、このまま音沙汰なくなるのもいいが、ぶちまけたものをすごすごと掃除する背中の惨めさも厳しいものがあるので、なんとかどこかの終着点にたどり着きたいものである。
――トロッコのタイヤが鳴った。

思いついた端から行こう。
今回はことばの美しさについて考えていく。

「美しさ」よく考えなくても各種芸術の最終目標であろう。音を尽くし筆を尽くし言葉を尽くし手を尽くし「美しい作品」を作るため邁進する。「美しい」という形容詞は作品の称揚する最上の語彙として君臨し、何なら言った人のイメージまで上がる気がする。眩しい。

「美しいことば」が、どうやらあるようである。
管見では、「日本語の美しさ」という言い回しが散見される。文語調のエッセンスを含んだり、漢語の熟語を駆使したりといった言い回しを、「日本語の美しさを感じました/を大事にされていて素敵です」というように讃える際に用いられる。僕はどっかのコメント欄でしばしば見かける。

そこで疑問なのは、文語調「で」かつ美しいのだろうか。「だから」美しいのだろうか。
「で」かつ美しいとしたら、特段そういったコメントをする動機がない。なぜなら文語調という要素を取り払えば、そこには私的なメッセージの要素だけが残り、「美しいメッセージですね/メッセージの構造ですね」のような私的な言葉の範疇で取り扱う形になるからだ。「日本語の」という修飾は必要としない。
よって僕は、「だから」なんじゃないか派である。
「だから」だとしたら、それは比較対象を必要とするだろう。文語調は口語調と対をなす。文語の世界を美しいとするには、美しくない口語の世界から覗いていないと成立しない。

文語は現代人からすれば手の届く範囲を離れた遠い言葉である。熟語だって日常生活に常用しては違和感がある。そこから思うに、手の届かない場所にあるものを美しいと感じるのではないか。私達の生活の場と一線を隔てた向こうの言葉を適宜「持ってくる」という感覚があっての”あえての文語・漢語使用”ではないだろうか。
言葉が権威性を帯びる点は興味深い。美しさとは権威なのだろうか?まだまだ疑問は尽きない。

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