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ジャンボジェットの比喩と志村

 三月に入って、休校措置が始まった。

 ヨーロッパにおけるコロナの流行が伝えられるようになった。日々の報道によって更新されるその感染者、死者の数は、とどまることなく増加し続け、一日に百人以上の犠牲者を数えることが、いつしか常態となってしまった。映像で見るその緊急治療室の様子は、真に緊迫したものであった。
 駅前の駐輪場はどこも空いていた。踏切前のバス停に並ぶ高校生の列も無くなった。
 ある時「ああ、これは一日に一機ずつ、ジャンボジェットが世界のどこかで墜落しているようなものだな」と思った。この言い回しを最初に思いついた時は、我ながら気が利いてるように思えて、職場での雑談に用いたり、ツイッターに書き込んだりしていたが、数日たって改めて考えると、別にそれほど上手い表現でもないなと考え直した。似たような文言は匿名掲示板でもしばしば観察された。むしろありふれていて、凡庸であった。自分は浅墓な人間であった。
 横浜港のクルーズ船のことなど、いつの間にか皆忘れてしまっていた。
 春分の日の三連休には、関東平野では桜が咲き、休校が解除された。自分も新宿西口まで出かけ、小田急百貨店内の伊東屋で文具を買った。発売されたばかりで、既に品薄が囁かれていたスイッチ版の『どうぶつの森』をビックカメラで見つけたので、これも購入した。その店内では、テレワーク導入に必要な各種機器をセットにして展示・販売する、特設ブースが出来ていた。

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 東京オリンピックが延期となり、志村けんのコロナウイルス罹患が伝えられた。首相や都知事の顔を、メディア上で良く見かけるようになった。
 三月二十九日、日曜日の関東地方は、雪であった。桜が開花している最中に雪が降るという非常に珍しい景色を、人々は競って撮影し、ネット上にアップしていた。
 その翌日の午前、自分は仕事中の移動で、中央線快速の下り電車に乗っていた。その車内において、日本国中に衝撃を与えたあの訃報を知った。ああ、これは、坂本九の死の時のようだと思った。
 一九八五年夏の、日航機墜落事故による坂本九の死を、祖父がとても嘆いていたことを思い出した。祖父は嘆きながら、その悲報を、十年日記(版元は定かではない)に万年筆で書きつけていた。当時小学生だった自分は、坂本のことは良く知らなかった。祖父の嘆いている姿だけが、ただ印象に残った。
 そう言えば、志村の全盛期も、丁度その頃だったなと思った。ほんの少しの間、少しだけ、意識が昭和の終わり頃に飛んだ。
 ある時代を代表する国民的大スターの、突然のあっけない不慮死。どこにも安全な場所などない、誰もが等しく危機の中に居るという感覚。喪失感。
 国立で電車を降りた。高架ホームから周りを見渡すと、建物の屋根に昨日の雪が残っているのが良く見えた。


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