【読書録】『三島由紀夫紀行文集』(佐藤秀明編・岩波文庫・2018)

 三島の紀行文、エッセイ集。サヨクの岩波書店からウヨクの三島の著作が出るのは、もしかしたらこれが初なのではないか? 三島らしく、観劇や芸術鑑賞に記述の少なくない部分を割いているのだが、読む側としては飲食のや、釣りなどの俗っぽい話題につい興味を魅かれてしまう。

 戦後間もなく書かれた欧米旅行記「アポロの杯」中、三島はフロリダで海釣りをして、キングフィッシュという魚を釣った体験を書いているが、三島と釣行の組み合わせは、全く不釣り合いで珍しい。

 三島はプエルトリコに行った際に、わざと名産であるラムではなく、地元の人間が飲んでいるウィスキーのソーダ割りを飲んでいる。その銘柄が「VAT六十九」だという。スコッチのバット69である。今では割とどこでも見かける酒だが、この時代からあったのかと感心してしまう。アルファベットと漢数字が混ざった表記にも、何だか時代が感じられる。

 また、リオではカピバラを目撃している。この動物に関する報告としては、割と早い時期のものになるのではないか?

 豚ほどの大きさの太った鼠であるところのCapivaraという齧歯類。短い尻尾を除けば、まるでそのまま鼠の拡大版である。戸棚をあけると、こんな奴が出て来たら大変だ。(但し食用になる)。

リオの市内電車に関する記述。

 リオの市内電車は郷愁的な形をしている。車体は古く、ある電車はもう一まわり小型の車体を牽いている。その電車は窓硝子もなく板壁もない。屋根と柱と、走る方向へ向いて順に並んでいる木のベンチと、その一方の側を遮る低い金網と、一方の側の、立乗席と出入口をかねた縁側のような張り出した板とで出来上がっている。それは遊園地の子供の汽車を拡大した形だと思っていい。張り出した板の上には多くの乗客が、柱につかまって鈴なりに乗っている。コパカバナの海岸へ海水浴へ行ったかえりの、濡れた裸の跣足の少年たちもそこに乗っている。電車は愉快に、体をゆすぶりながら賑々しく走り出す……

 都市論・文明批評的な記述を何点か。サンフランシスコについて。

 桑港はほとんど風土を感じさせない。一地方の自然と人間の歴史とのあの永い感情的交錯を感じさせない。そういう感情的交錯がないことは、合衆国という土地が、与えられたものではなく、獲得されたことによるのであろう。合衆国の自然は、後天的なものであって、先天的なものではない。いかなる意味においてもこの国の自然が、住民にとっての宿命でないことによるのであろう。

 パリについて。

 巴里で私は左右対称に疲れ果てたと言っても過言ではない。建築にはもとよりのこと、政治にも文学にも音楽にも、戯曲にも、仏蘭西人の愛する節度と方法論的意識性(と云おうか)とがいたるところで左右対称を誇示している。その結果、巴里では「節度の過剰」が、旅行者の心を重たくする。

 タイガーバームガーデンについて書かれた「美に逆らうもの」という文章の中から、アメリカ文明に関する記述を引く。ディズニーランドに対する評言が、珍しい。

 北米合衆国はすべて美しい。感心するのは極度の商業主義がどこもかしこも支配しているのに、売笑的な美のないことである。これに比べたら、イタリーのヴェニスは、歯の抜けた、老いさらばえた娼婦で、ぼろぼろのレエスを身にまとい、湿った毒気に浸されている。いい例がカリフォルニヤのディズニィ・ランドである。ここの色彩も意匠も、いささかの見世物的侘しさを持たず、いい趣味の商業美術の平均的気品に充ち、どんな感受性にも素直に受け入れられるようにできている。アメリカの商業美術が、超現実主義や抽象主義にいかに口ざわりのいい糖衣をかぶせてしまうか、その好例は大雑誌の広告欄にふんだんに見られる。かくて現代的な美の普遍的な様式が、とにもかくにも生活全般のなかに生きていると感じられるのはアメリカだけで、生きた様式というに足るものをもっているのは、世界中でアメリカの商業美術だけかもしれないのである。

 この記述を読むと、後世に登場する東京ディズニーランドに関する文章も、三島に書いて欲しかった気がする。三島の没年は1970年、東京ディズニーランドの開業は1983年である。

 もはや美の領域で、「ブゥルジョアをおどろかす」ようなものは存在しない。超現実主義は古い神話になり、抽象主義は自明な様式になってしまった。抽象主義はやがて、ゴシックが中世において意味したようなものになってしまうであろうし、それだけのことだ。モデルの体に絵具を塗って画布の上にころげまわらせても、悲しいかな、結果は自明であり、美は画布の上に予定されている。


詩的散文・物語性の無い散文を創作・公開しています。何か心に残るものがありましたら、サポート頂けると嬉しいです。