見出し画像

好奇心・勇気・受容・知恵

ギリシャで哲学をした。そういうと格好よく聞こえるが、時間があったのでぼんやり、幸せとは何か?と考えていただけだ。哲学者を輩出したお国柄がそうさせたのかもしれない。

結論、僕は最高に幸せであることに気づけた。

その理由

①何が起きても幸福であると思える好奇心・勇気・受容・知恵を一定程度手に入れた
②自分が思う不幸の要件「加齢に伴う好奇心・選択肢の低下」は主観に基づく偏見が混じっており、考え方次第で防げると気づけた
③幸福という概念自体も主観(以下略)幸せだと確信した

今日は①の話だけを、やや詳しめに書いていきます。

 この話には、汎用性を出したかったために再現性のないパーソナルな話はしない。難しい単語も極力なくした。出てくるのは具体的な「考え方」と「プロセス」だ。いわゆる、誰でも今から真似できる話だ。思考を残しておきたい自己満足欲により、恥ずかしながら公開。

 幸福という抽象度の高い概念を、宗教者がカリスマ性で、スピリチュアルな人達が体験で伝えるしたら、僕は言論で思想を伝えようと思う。同じように言論でコミュニケーションできる人に少しでも伝われば幸いである。

成果と直結する好奇心

 32年間生きてきたが、没頭や失敗はいくらでもあれど、努力や後悔はしたことがなく、完全なる好奇心とポジティブさだけで生きてきた。決して天才型ではないしロジックも強くない。でも幸せそうと言われて生きてきた。
※成果は定義によるし、つかめたかどうかも主観だから省略。

好奇心が持つ魔法

成果を計算式で表せば、成果=質×量(投入時間)の掛け算だ。
ここで、努力ではなく好奇心で生きていると使える魔法が三つある。

魔法①:質が明確に変わる

具体例。子供の時に、興味を持った何百種類のポケモンを覚えるのに苦労せず、自然とポケモンを覚えられただろう。同じ要領で、好奇心さえ持てば、英単語や歴史の暗記には苦労をせず、同じ投入時間であれば質が高いおかげで成果が上がるという論理だ。

魔法②:目的が決まっているため無駄がない

具体例。努力をする際に目先の目標を設定して時間という貴重な資源を投入し始めた場合、後ほど目的設定という大論点がずれる可能性があり得る。一方で、好奇心に基づき行動をしていると、当初から目的(好きだから、学びたいから、極めたいから等)に沿った動き方ができているため投入した時間に無駄がなく、目標達成・未達に関わらず、そもそも目標は通過点であるため、目的に関して挫折や後悔をする発想にならない。単なる目標設定上の課題いわば小論点に完結できる。

 補足をすると好きなことをして生きていくと、好奇心を持つ取組みを混同してもらっては困る。僕の主張は、すべての取り組みに好奇心をもって生きるという事である。どの取り組みを選ぶかは、別noteに書く。

魔法③:やる気スイッチならぬ、没頭スイッチを手に入れる

 やる気を出そうと思ったとき、努力で生きている場合はやる気スイッチなるものを探してどうにかやろうとする。好奇心で生きていると、好奇心を持った時の集中力の効用を経験をしているので、好奇心を持つスイッチを見つけることができる。これは別名として没頭スイッチと呼ぶのが適切だろうか。それにより、どんな事でもわき目もふらずに目的に近づくために没頭できる。

※努力の人は目標達成に対して誇りを持つ傾向がある。一方で好奇心の人は目標達成を鼻にかけずに、「好きだからやっていた」「ラッキーだった」「まだまだ目的には遠い」「好きで没頭していたら結果がついてきた」という謙虚なスタンスを持つ。それが好きで、僕は好奇心の人をマネし、結果としてその考えが身についたとも言える。

決断に慣れ、自分を自分で肯定すると幸せになる

 判断と決断は違う。判断は、物事を決める際にすべての選択肢をテーブルの上に置き、そこから選ぶこと。したがって合理的で誰がおこなっても同じ判断になることが多い。決断は、物事を決める際にまだ見えない選択肢もあるが主観で決めること。したがって主観が混ざり、その決断が大きいほど不確実性が混じり、勇気が必要となる。

 決断には失敗がつきものだ。そもそも複雑系で不透明な世の中であり、うまくいかないことなど多々ある。後悔する必要などない。

 後悔がなぜ不要なのか。完全に揃わない条件下で決断をし、失敗をしたとしても、時間は遡ることができないし、自分が暫定的な最適解を見出して決断をしたならば「その時点において」別の決断ができなかったはずである。従って、不可逆性の中で後悔する必要はないという論理だ。後悔は不要で次のアクションに活かせばいいだけの話だ。
※大前提として、その決定は考え抜いて決めた決定に限る。自分があれだけ考え抜いて失敗したならば仕方ない、と思えなければ失敗の本質は思慮不足である。

 考え抜いた決断には、過去を振り返っても仕方がない。そんなときには明るく笑って知恵を絞って「失敗した!」と思ったり・言ったらいいと考えている。
※コミュニケーションの話は別論点。ヘラヘラしてても信用を失う事もある。時に神妙な面持ちも必要。

 決断をする経験を積むと、「あるべきカードの中で戦う(飛び道具はない)」「タラ・レバはない」という、当たり前だが前提・制約条件の壁にぶち当たる。前提・制約条件の壁をどのように超える、壊す、あるいは回り道をするのか、という事を試行錯誤するプロセスが面白いし、決断経験を経ると、前提条件や立場の違いに文句を垂れるという無駄な時間の使い方を、一切しなくなるし、言い訳もしなくなり、清濁併せ呑み受け入れられるようになる。

そんな決断を繰り返していった結果、気付けば失敗と成功が増えて、成功の勘所もつかめるようになり成功確率も上がる。そして失敗の許容度も上がり、次に決断をする勇気と自信を保っていられる。

まとめ。判断ではない決断を自分が行うメリット。

①決断時に見えないシナリオを考え抜く過程で仮説思考力が身に着く
②決断した勇気、失敗を恐れない姿勢、自己肯定感を手に入れられる
③現実世界の最善手を考える立場になると、すべての格差を受け入れられる

さいごに

散文になってしまったが、ここまで読んでいただきありがとうございます。最後に主張したい事をまとめました。この考えに則ってしばらく生きていましたが、進捗とてもいいです。僕はもう少しこの考え方をぐるぐる回してみようと思います。

キーメッセージ

幸福な人生に必要なのは、好奇心・勇気・受容・知恵

具体的プロセス

①取り組む時、好奇心をもって取り組む。
②決める時、勇気をもって決める。
③振り返る時、結果を受容し知恵を絞って自分を肯定する。
①の結果、全力で物事に没頭でき、成果が出る。
②の結果、知識経験総動員で意思決定をするため後悔しない。
③の結果、セルフマネジメントができ、ご機嫌に次の挑戦ができる。

※10年くらい前には、世界は認識で変わるのか行動で変わるのかを考え始め、3年くらい前には、どちらか片方ではなく自己肯定感と好奇心、という考えにたどり着き、今考えたら当時に比べて解像度が高く経験と知識に基づいた考えに昇華できたかなとは思います。

 本日、歳を一つ重ねました。アラサー後半に足を突っ込み始めていますが、人に優しく、日々楽しく生きていきたいと思います。

 辺境を回って、遠くに行くほど見える景色も考えることもプリミティブになり、先が「見えた」ため、旅の終わりの足音が鳴り始めました。明日から「確信」に満ちた地・ギリシャのアトス自治修道士共和国に今年二度目の入山をし、電波も広告もない環境で、抽象度の高い哲学をして参ります。


 この考え事をした後に、アトス山でぐるぐる考えて構造化をした結果がこちら。

 あっ、ようやく形になったと自分の中で旅を終えることに妙に納得しながらこれを書いていました。

♡あるいはコメントが励みになります。ぜひ感想など教えてください。

それでは!

サポート頂けたら、単純に嬉しいです!!!旅先でのビールと食事に変えさせて頂きます。