何をやっても同じこと

今年に入ってから、絵を描き始めて感じることがある。

それは、「何をやったとしても、本質的にすべて同じだという事」。

本質とは何だという、抽象的な話になるが、RPG風に言うなら、「ある職業でレベルを上げれば、ほかの職業も自動的にその半分のレベル以上には習熟していて、そこからも元の職業のレベルまで経験値ボーナスがある」という感覚になるだろうか。

私の例、「スポーツ」と「絵をかくこと」で考えてみよう。
スポーツは私が学生時代10年以上は打ち込んできたことであり、絵をかくのは今年に入って始めたことだ。
スポーツは昔から好きで、特に高校に入ってからは解剖学・生理学等々の勉強も、運動の実践も、これ以上ないくらいに打ち込んでいた。
対して絵を描くのは昔から苦手で、死ぬまで絵を好きになることも得意になることもないだろうと思っていた。

しかし、(傲慢だが)スポーツがある程度のレベルに達してから、絵を描くことを含め、読書や物書き、料理等々あらゆる「苦手」や「嫌い」が消えていることに気づいた。

人が何か一つのことに、全力を以て打ち込むとき。
その時に使われる能力というのは、どんな分野であっても、おおよそ共通しているのだろう。
敢えて言語化するなら、「認知能力」とか「課題発見力」とか「集中力」とか「継続力」とか、そういうものになるだろうか。

スポーツをするときに、要素を競技の実践的な動作の訓練、筋トレ、栄養、休息などに分解して捉えて成長していったように、絵を始めた時には構図、色塗り、図法、解剖学、のように要素を分解して捉え、何が自分に不足していて、どこから手を付けるのかを考えることができた。
そして、筋トレから継続の重要性と、基礎練習の大切さを知っているから、毎日クロッキーを継続することができた。
スポーツで磨いた一瞬をとらえる集中力が、ものを正確に観る能力を与えた。

まだスポーツに打ち込んでいない小学校の時分に絵を始めていたとしても、スポーツで鍛えた地力がない分、今の1/10の成長も見込めなかったことが予測できる。

全力で物事に取り組み、人が成長するときには、そういう抽象的、広範的な能力が磨かれる。
だから、先ずは一つのことを極めなければならない。
何をやるのかはなんだっていい。
ただし、全力でやらなければ意味がない。
あれもやりたいこれもやりたいと感じて、何も全力で打ち込めない人もいるかもしれないが、心配はいらない。
一つのことを全力でやるのは、結局すべてのことをやっているのと同じだから。

学生などであればスポーツと(受験)勉強、二つとも打ち込まねばならない場面もあるだろう。二つ以上のことを同時にやることは否定しない。
しかし、主従ははっきりさせなければならない。
スポーツと勉強、どちらに自分の命を捧げるのか。一片にどちらも得ることはできない。しかし、一つを得るために命を捧げれば、いずれ両方とも手に入る。

スポーツに決めたのならば、スポーツに自分の全存在をぶつけて、勉強はあくまでも、スポーツのおまけとして保留しなければならない。

あれもこれもを願う人間は何も得ることはなく、
あれかこれかを選んだ人間があれもこれも手に入れる。

そういうものだと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?