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「怒り山」登山初心者は

2023年3月5日(日)
 ノコ(娘小3)の「怒り」について考えを巡らしていたときに、ふと思い出した。

 私は長いこと「怒り」という感情がよくわからなかった
 それはある意味、怒らないで済む恵まれた環境で育ったともいえるのだけど、同じ家で育った妹は怒りをたくさん抱えていた。
 妹の怒りは理解できなかった。
 私にとって些細なことで、なぜそんなに怒るのかわからなかった。
 姉であるものの、私は親ではなかったし、家の空気をピリピリさせる妹の存在が正直うとましかった。

 疎遠になったので、今の妹はどんな様子か私は知らない。
 当時を思い返して妹の気持ちはああだったのだろうか、こうだったのだろうか、と考えることもしない。
 だって、記憶がおぼろげなので、それをもとに考えたら、ねつ造になっちゃいそうだ。

 ノコを委託され、ノコの怒りを目の当たりにして戸惑った。
 やっと解放された「怒る人」とまた同じ屋根の下で暮らすことになってしまったからだ。しかも今度は自らの意思で、決断で!
 なんでよ、もう!!!!

 委託直後に参加した里親子の集まりでぼやいたことがある。
 「私、怒るってわからないんです」
 私としてはずっと思っていることを吐き出したつもりだったが、私の言葉を聞いた里親さんはびっくりしたような、呆れたような、理解不能な顔をしていた。
 あれは何を思う表情だったのだろう。今でもわからない。
 きれいごとをいう人だと思われたのだろうか。
 ずいぶん恵まれた環境でお育ちになったと思われたのだろうか。

 ノコのことを考えるなかで、「怒り」が二次感情だと知った。
 それが手がかりになりそうだ。
 私は幼い頃から「なんでそう思うんだろう」と考える子だった。まずは自分自身について。それから身近な人について。妹は近しい人ではあったが、考え方や感じ方があまりにも違い過ぎて、私のもつ自分の体験をもとにした考えの外にあってわからなかった。
 「どうしてそう思うの?」と問うても、年下の妹にはまだ言語化する力がなかった。

 思うに、私は自分の一次感情をまず「どうしてそう感じたんだろう?」と紐解こうとするため、そこで納得できる感情のもとに気付いてしまう。一次感情の発生元がわかるため、そのまま一次感情が積み重なったり、あふれてしまったりしないので二次感情である「怒り」に到達しなかったようだ。
 もともと感情の起伏がゆるやかな性質なのかもしれないが、それよりも自問し、考えることが好きなことが大きいと思う。

 ノコと暮らすなかで、私ははじめて「怒り」を知った。
 怒る妹からは、私は逃げ出せた。自分の部屋や家の外や内なる想像の世界へ避難できたし、親がなんとかしてくれた。
 でも、ノコはそうはいかない。
 ノコが「怒り」をぶつけてきても私はノコを放って逃げるわけにはいかない。なんとか一緒に暮らす道を探らないといけない。
 ノコの怒りは大抵理不尽だった。八つ当たりだった。
 私が大切にしていた物や考え方を雑に扱われ、否定された。それに傷付いて距離を置きたいが、幼いノコは自分で怒りを鎮められない。

 里親の体験談で「念願の子育てができた」「子どもと過ごせる喜び」という話は聞く。
 私は里親になって「怒り」を知った。
 もしかしたら、知らないまま生涯を閉じたほうが幸せだったかもしれない。
 怒りは苦しい。
 怒りは嫌いだ。
 激しい怒りに振りまわされるのではなく、私は静かに一次感情を見つめ、考えたい。

 怒り初心者の私は、ノコの怒りも、ノコにぶつけられてわく自分の怒りももてあましている。どうしたらいいのかわからない。
 毎日悩む。
 毎日苦しい。
 毎日嫌だ。

 ノコは私に「怒り」を教えてくれた。
 これだけいうと、なんだか悪いことのようだが、そうといい切れない。
 ノコの怒りは私の前にたちはだかる。まるで大きな山のようだ。そう、「怒り山」だ。
 怒り山登山初心者の私は、まだ山裾をうろうろ徘徊するばかりで、怒り山の醍醐味がわからない。わからないけれど、なんだか離れられず見上げている。
 ノコとむーくん(夫)と手をつないで、私は怒り山を登っていく。いつか山頂から手を振る日が来るのだろうか。
 そこから何が見えるか、それを私は知りたい。

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