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【大森房吉】緊急地震速報の基礎を作った男~土木スーパースター列伝 #05

今日9月1日にちなんで、名前を覚えて欲しい人物がいます!

今日9月1日は1923年に関東大震災が起きた日ということから「防災の日」とされています。そこで、土木スーパースター列伝の第5回目でご紹介するのは震災予防の学者『大森房吉』です。

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日本地震学会誕生秘話

「近代地震学の父」は?と尋ねられ、ジョン・ミルン博士の名をあげる方はマニアです!大森房吉の話をする前に、このミルンについてお伝えしなければいけません。

1850年(嘉永3年)英国・リバプール生まれのミルンは、1876年(明治9年)に工部省工学寮(東京大学工学部の前身のひとつ)の鉱山学教師として26歳の若さで来日します。

そして、来日して4年後の1880年(明治13年)春に、1年ほどの準備期間を経て、仲間ともに世界初となる地震の学術団体「日本地震学会を創設します。

学会創立の目前、1880年2月に横浜地震が起こります。日本人にとっては「あ、またか」程度の中規模な地震でも、地震をほとんど知らないミルンたちにとってはよほどの驚きだったのだと思います。

東京・上野公園の敷地内にある国立科学博物館には、ミルンが開発した地震計などが常設展示されています。上野公園近くにお越しの際はぜひ足をお運びください。

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マツが大好きな国立科学博物館

120年前に緊急地震速報の基礎を作った男

地震のメカニズムを科学的に解明する道を作ったジョン・ミルンに対して、その知見を「地震学」として確立し、人の命を守るための防災につなげようとする日本人が現れます。それが「震災予防の父」大森房吉です。福井県福井市出身(1868~1923年)で、地震学確立と震災予防のために生涯尽力します。

ここで大きな選択に迫られます。ジョン・ミルンではなく、大森房吉を土木偉人に選んだことです。それはなぜなのか? マツなりの大森愛をお伝えしましょう。

大森愛その1)不可能を可能にした地震計の開発

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大森式地震計(出典:国立科学博物館)

大森房吉の最大の功績に数えられるのが1898(明治31)年頃に開発した地震計「大森式地震計」です。連続記録がとれる大型の地震計として登場し、遠く離れたアラスカで起きた遠地地震をとらえることに成功したことで大森の名を世界的に有名にしました。これまでP波とS波とを区別して記録することが不可能だったことを可能にした地震計です。

大森愛その2)緊急地震速報の基礎を作った
大森式地震計登場の翌年「大森公式」を発表します。この公式は、震源距離(観測地点から震源までの距離)を計算で求めることができるため、地震波の速度から地震を予測するものでした。

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出典:Wikipedia

この公式は試験に出ませんので、覚えなくて良いです(笑)。ただ、覚えておいて欲しいのは、私たちが今使っている「緊急地震速報」は、120年前に発表されたこの「大森公式」の理論が基礎となっていることです。

確かに、日本地震学会を創設し、日本の地震学の夜明けを駆け抜けたジョン・ミルンも偉人に相応しいんですけど、「近代地震学の父」の名が大森房吉こそ相応しい気がしているのは、彼の功績が現役で生きていることです。

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『土木偉人かるた』の説明欄

関東大震災を予知したのに、悪評を受けた男

地震予知は、地震大国日本の永遠の課題です。大森もこの課題に取り組み、次に起こるであろう相模湾沖で発生する関東大震災を予知しましたが、震災対策に活かされることはありませんでした。

こんなエピソードがあります。

大森の下で准教授として研究を行っていた鹿児島県出身の今村明恒は、1905年(明治38年)に「東京で大地震がある」ことを雑誌に寄稿します。これが新聞に煽動的に取り上げられたことから大きな社会問題となります。

しかし、東京帝国大学教授という権威者であるが故か、それを発表した際に生じる社会的影響の大きさを考え、大森自らその説を否定せざるを得なくなったようです。ここが分かれ道となります。

それから18年もの間、大地震は発生せず「ホラ吹きの今村」と中傷され続けた日々を送った1923年(大正12年)、関東大震災が発生します。

その結果、今村は「関東大震災を予知した男」「地震の神様」と呼ばれるようになり、一方の否定した側となった大森は「関東大震災を予知できなかった男」と悪評されました。

ここらあたりの話は、2013年(平成25年)に刊行された上山明博著「関東大震災を予知した二人の男 大森房吉と今村明恒」(産経新聞出版)に詳しいのでご興味のある方はぜひご一読いただけたらと思います。


日本初のノーベル賞を蹴った男

1914年、大森房吉にノーベル賞物理学委員会から論文提出の依頼が届きました。論文を提出するとは、ノーベル賞候補に上がることを意味しますが、大森から論文が提出されることはありませんでした。日本人初のノーベル賞受賞者・湯川秀樹博士が物理学賞を受賞する35年前のできごとです。

論文を提出しなかった理由は諸説あります。

まだノーベル賞が無名だったからだとする説。26歳でヨーロッパ留学を経験し、国際派だった大森はノーベル賞のことを知っていた説。論文提出依頼の直前に発生した桜島大正大噴火の対応に追われていたためそれどころではなかった説。

いづれにしても、大森房吉からノーベル賞物理学委員会に論文が提出されることはなく、日本初のノーベル賞受賞の栄誉(の可能性)は消えていきましたが、地震学を震前防災・工学分野に活かそうとした大森房吉の素晴らしさは消えることはありません。

今日9月1日は防災の日です。いまいちど郷土の災害史に目を向け、先人たちの努力に感謝し、次なる災害から命を守るために備えましょう。

文:松永 昭吾(マツ) fromDOBOKU編集長/土木学会地震工学委員会委員
土木酒場大将。51歳。酒と本をこよなく愛する土木技術者。「土木は優しさをかたちにする仕事」がモットー。土木学会土木図書館委員会委員・土木学会誌編集委員。土木偉人かるた部西部支部長。土木写真部福岡支部長。マンホール探検隊九州支部長。(株)インフラ・ラボ代表取締役、(株)サザンテック執行役員上席技師長。工学博士・技術士・防災士。