LuisFroisと歩む京都

「フロイス日本史」に準拠した京都の歴史と、それぞれに関連した観光スポットを紹介していき…

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「フロイス日本史」に準拠した京都の歴史と、それぞれに関連した観光スポットを紹介していきます。  ー旅案内ー

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  • フロイスと歩む京都キリシタンの旅

    今日、ルイスフロイスらの生活の痕跡を知るのはとても困難です。京都は開発も進み古い謂れのある遺物も現地を見に行くと無残に重機が入っていることもあります。 それではもはや何も残されていないのだろうか? 「フロイス日本史」に準拠した歴史に沿い、京都近郊の旅にでましょう。

最近の記事

おまけ:南蛮美術について

葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱 :北鎌倉松岡山東慶寺所蔵(鎌倉市)  日本の工芸の粋を凝らした南蛮美術は主に輸出用であったので、国内にはほとんど残っていない。この贅沢な美しいイエズス会の蒔絵はいつどのように作成されたのだろうか?現在は、お寺が所蔵している。東慶寺は女人救済の縁切り寺とよばれた尼寺であった。この聖餅箱は、国内で歴史を歩んだ。(画像は東慶寺のHP) https://tokeiji.com/about/cultural/makie/radenseiheibako  「葡萄

    • 21.京都におけるキリシタンの処刑

       1616年に家康が死去して秀忠が将軍となると、キリシタンに対する取り締まりは厳しくなる。徳川幕府はすべての世帯に対して強制的に仏教寺院の檀家を決め、また、キリシタンを密告させる仕組みを整えていく。今日に至る檀家制度の始まりがここにある。フロイスが驚愕したようにそれぞれの宗派の教義は別の宗教と言えるほど異なるが、現代にはそれを知るものはもういない。  1619年、京都所司代板倉勝重は棄教しない信者を捕らえて小川牢屋敷に収監していた。苛酷な獄舎で体力のないものは既に病死してい

      • 22.伏見の古地図

        「豊公伏見城ノ図」月桂冠大倉記念館所蔵品:京阪中書島駅から伏見桃山駅に向かって歩く。図は、月桂冠のHPより引用。 https://www.gekkeikan.co.jp/enjoy/bunko/takayamaukon/fushimikyokai.html https://www.gekkeikan.co.jp/enjoy/museum/fushimi/   伏見の教会跡  伏見城とその城下を造るときにイエズス会の教会や高山右近の邸宅もあったとされる。月桂冠(1637

        • 23.キリシタン墓碑

           京都は幕府が政治支配を強化する観点とキリシタンが多かった観点の両面から、当然、禁教令が最も厳密に施行された地域の一つであったが、数多くのキリシタン墓碑が破壊されずに発見されている。表面の磨耗のため文字の判読不能なものもあるが、打刻年号は慶長7年(1602年)から慶長18年(1613年)の12年間に限られる。板碑型のものと、横置の蒲鉾型のものがある。京都市内で発見された墓碑の多くは、京都国立博物館や京都大学博物館、京都考古博物館で保存されている。これらの、墓碑の発見、発掘場所

        おまけ:南蛮美術について

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        • フロイスと歩む京都キリシタンの旅
          26本

        記事

          20. ダイウス門徒の北野邊に在る寺

          西大路一条東入る(大将軍川端町)北野橋付近?(推定)  公家である西洞院時慶の京都生活日記である「時慶卿記(ときよしきょうき) 」には「ダイウス門徒の北野邊に在る寺」とはっきり記録されている。北野に宗教関連施設があったことがわかる。また、伝聞を集めて記録された「当代記」には「慶長19年...伴天連の寺2箇所、西ノ京...、四条町中」と記録されている。  昭和56年の北野廃寺跡調査の折に、一条通北野橋付近で板碑型キリシタン墓碑(京都考古博物館収蔵(常設展示ではない))(写真は

          20. ダイウス門徒の北野邊に在る寺

          19.「西の京だいうす町」

           JR円町駅に近いところから天神下立売下ル、京和幼稚園前の「元阿弥陀寺跡」石標が立っている辺り一帯も「だいうす町」と呼ばれていたと口伝されている。南蛮図屏風に描きこまれているとされるロレンソ了斎はこの「西ノ京だいうす町」に住んでいたという。文献では西の京だいうす町は確認できないが、近隣から墓碑群が発見されたことは、その確からしさを高めている。  ところで「だいうす」とはなんだろうか。「デウス」と「だいにち」が複合的に訛った言葉なのだろうか。ザビエルは最初に「だいにち」と誤訳し

          19.「西の京だいうす町」

          18.だいうす町

           京都にはキリシタン信徒が数多く集住した地域としての「だいうす町」という地名が江戸時代も残されていた。「だいうす町」は複数あったと考えられている。  江戸時代の1639年刊『吉利支丹物語』に「京ハ五条ほり川、一条あふらのこうじに大寺(教会)をたて」という記事がある。一条油小路に建立された大寺が破壊された跡地は「だいうす丁(町)」と呼ばれるようになった。1686年刊『雍州府志』には、一条油小路と堀川の間を「大宇須辻子」(だいうすのずし)と呼ぶと記している。1624~44年頃に出

          17. 妙満寺跡地

          :四条堀川南西の角 妙満寺町  「妙満寺」は当時、四条堀川にあったが、秀吉の命令で京都の多くの寺は「寺町」に強制移動を命じられたので、現在の京都市役所北側に引っ越していった。その跡地が、ペトロパプチスタらフランシスコ会士の生活と活動拠点だったと現在では考えられており、1979年に建てた石碑がある。妙満寺町の名前が現在も残っている。妙満寺は、現在、さらに岩倉に引っ越している。  この場所は、既に定説となっているが、実際に歩いてみると腑に落ちないこともある。妙満寺は法華宗の寺

          16. 一条戻橋における耳削ぎ

           秀吉の禁教に関する政策は透徹性に乏しかったので、フロイスらは服装も日本人に習い布教活動を自粛して日本での生活を継続していた。伴天連追放令から5年を経て1593年に来日したフランシスコ会の宣教師ペドロバプチスタらは布教しないことを条件に京都で暮らす土地を求めた。多忙を極める秀吉らの目の届かぬところで日本への一時居留を許可されたに過ぎなかったが、しかし、彼らは何らかの確信を持って公然と説教を始める。  1596年高知に漂着したスペイン船サンフェリペ号事件をきっかけとして、施薬院

          16. 一条戻橋における耳削ぎ

          15. 名護屋城とファンコボの失態

          名護屋城(佐賀県)  秀吉は朝鮮出兵のための出兵拠点として名護屋城を築いたが、大坂城に次ぐ規模で周囲には諸大名の陣屋が並び全国から人々が集った。  関西から遠く離れた九州の「名護屋」は、その後のフロイスらの京都の歴史にとっても変曲点となる。名護屋城博物館:佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931(写真は博物館のHPより) ファンコボの失態  フィリピンに対して秀吉からの無理な要求が届くと特使として日本にファンコボが派遣される。ファンコボは、スペイン人でドミニコ会の修道士。メキ

          15. 名護屋城とファンコボの失態

          14.施薬院(やくいん)と ”施薬院全宗”

          施薬院(やくいん)  施薬院は、聖徳太子が慈悲の思想に基づき、薬草を栽培し、怪我や病気で苦しむ人を救うために作ったと言われる庶民救済施設。「施」の字はなぜか読まれないことが多く、中世以降は主に「やくいん」と呼ばれた。 この時代には施薬院はすでに衰退し形骸化していた。江戸時代の施薬院の場所は、御所蛤御門西側あたりを推定?詳細不明。 悲田院  平安時代に京都には東西2ヶ所に福祉施設があった。碑文のある場所は東の福祉施設で京都中の捨て子や孤児、貧窮者などを収容していたという。

          14.施薬院(やくいん)と ”施薬院全宗”

          13. 曲直瀬道三の石碑

           曲直瀬道三  曲瀬道三は最も優れた学者の一人で「医聖」と称されるほどの都の医師であった。たまたま結石症治療を受けたイエズス会士フィゲイレドと語り合ううちに親交を結び、1584年12月、77歳のとき、オルガンティノにより受洗する。  ここで行われた会話は極めて現代的(普遍的)な内容である。  ”日本の神々は過去の貴人である死者でありそれを偲ぶことは良いことではあるが、現世をどう生きるのか悩む人々にとって指針を与えるものではない。対してフロイスらが説く言葉はすべてにおいて公

          13. 曲直瀬道三の石碑

          12. ガラシヤの墓

          :高桐院 今宮門前通り側の塔頭 500円 常時公開 9:00~16:20 不定休  細川忠興が1602年に建立し大徳寺高桐院に、83歳まで生きた忠興自ら墓標に指定したといわれる忠興と細川ガラシヤの墓がある。墓石は一つの灯籠石で、それが2人の墓を意味しているという。なぜ灯籠石なのかはよくわからない。  洗礼名”ガラシヤ”を名乗る細川玉は、おそらくは堺のキリシタン墓地に眠っていたいだろう。しかし、夫は禁教になるとそれを許さず、数カ所の仏教寺院に”ガラシヤ”の墓石を造った。堺のキ

          12. ガラシヤの墓

          11. 細川ガラシヤの受洗と監禁生活

            細川玉(ガラシア)の受洗  家から一歩も外に出られない玉は侍女からもたらされる新しい教えを聞くにつれ関心が増して受洗を決意していた。監視の隙きを伺い侍女に囲まれ身を隠して教会に赴き修道士に蓄積していた疑問を質した。修道士は「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と回想した。服装や振る舞いから高い身分の女性、秀吉の側室である可能性を察したので、修道士は同日の洗礼を見送った。籠で家に連れ去られていったのでそれを尾行して細川玉であることが知られる

          11. 細川ガラシヤの受洗と監禁生活

          10.越中井

          :大阪市中央区森ノ宮中央2丁目12番 (森ノ宮駅から徒歩5分)  大阪玉造の細川越中守忠興屋敷跡で、焼け落ちて台所の井戸だけが残ったという。越中+井=越中井。  1934年建立の石碑の題字と碑文は徳富蘇峰と広辞苑を編纂した言語学者、新村出の筆。側面の碑文の中に明智玉の隠棲地は丹波であることも記述されている。(写真は大阪市のHPより)  1600年上杉征伐が始まると、石田三成は定石に従い大名たちの家族を大阪城内に人質にとる政策を立てる。まず細川玉子(ガラシヤ)らに大阪城への

          9.細川ガラシヤの丹後味土野女城伝説

           本能寺の変が起こると、細川玉子(後のガラシヤ)(1563年-1600年8月25日)は「みどの」で隠棲生活を送ることになる。細川玉子は明智光秀の娘で、20歳から秀吉が大阪城下に呼び寄せるまでの2年間、「みどの」で満たされることのない禅を学びながら過ごした。  「みどの」は丹後半島の最奥の山中「味土野」(京丹後市弥栄町須川)であるとこれまで信じられてきた。人間の営みを拒絶する急峻な峰に女城と男城を分け女城を監視したといい伝えられた。  2019年に地元の高校生らが訪れる人のた

          9.細川ガラシヤの丹後味土野女城伝説