18.だいうす町

 京都にはキリシタン信徒が数多く集住した地域としての「だいうす町」という地名が江戸時代も残されていた。「だいうす町」は複数あったと考えられている。
 江戸時代の1639年刊『吉利支丹物語』に「京ハ五条ほり川、一条あふらのこうじに大寺(教会)をたて」という記事がある。一条油小路に建立された大寺が破壊された跡地は「だいうす丁(町)」と呼ばれるようになった。1686年刊『雍州府志』には、一条油小路と堀川の間を「大宇須辻子」(だいうすのずし)と呼ぶと記している。1624~44年頃に出版された「平安城東西南北町並之図」や慶安版・寛文版・元禄版・寛保版「京大絵図」にも「たいうすのづし」「大うす丁」の名が残っている。この他、1665年刊『京雀』では現在の下京区若宮通松原上る菊屋町(次項に詳述)に、1652年版「平安城東西南北町並之図」には、下京区岩上通四条下る(妙満寺町界隈)に、それぞれ「だいうす町」が記されている。
 江戸時代、キリシタンを処刑する時代に入り、なぜ、この地名が残ったのだろうか?


(1)「だいうすの城」
(2)菅大臣神社と「四条町中の伴天連の寺」
(3)松原通 

(1)「だいうすの城」:下京区菊屋町  若宮通高辻下

 菊屋町のあたりには「だいうすの城」と口伝されるエリアがあったという。菊屋町の北、高辻通側に堀之内町、南の松原通側に藪下町の地名が現在も残る。また、この菊屋町界隈の”だいうす町”は別名を竪(たて)町(注:「堅」ではない)といったと伝えられる。金沢には現在も竪(たて)町(片町)の地名が残っており細長い商店街を指している。これは類似の雰囲気を現在も残す松原通が推定される。
 「堀之内」は、武士や領主の館を指す一般的な歴史用語で周囲には堀や盛り土がめぐらされていた。高辻は現在も文字通り高低があるが、「だいうすの城」と口伝された場所は高台に位置していることがわかる。
 禁教令の後にはキリシタンたちはいわれのない暴力に晒されたことは容易に想像がつくから、治安が維持されている場所に必然的に集まらざるを得なかっただろう。それが「だいうすの城」だったのかもしれない。
 下京においては、公正であることを重んじる奉行の石田治部少が治安を維持していたはずだから、彼らを目立たないよう庇護したことにはなっていただろう。

(2)「四条町中の伴天連の寺」

 堀之内町の高辻を挟んだ北が菅大臣町で現在は菅大臣神社がある。この神社自体には1000年の歴史があるが、慶長19年に再興され現在に至っている。禁教により破壊された全国の教会の跡地には寺や神社が建てられたので、ここが日本の文献である「当代記」に記録された、慶長19年に毀ち火を掛けられた「四条町中の伴天連の寺」があった場所(後述)と推定して間違いないだろう。

画像1

 菅大臣神社境内の説明看板には、1000年の歴史があること、この土地が古の菅家宅地跡と考えられること、慶長19年に戦火で消失していた社が再興され現在に至っていること、は明記されているが、慶長19年の前にはここに社がなかったことはぼかして記述している。神社自身はそれを公示しなくてもよいが史実は明らかにしなければならない。
 「当代記」に記述された2つの場所がどちらも菅原道真の天満宮の隣接地であることは注目される。神社側がキリシタンが住まうことに寛容であったことは言えるだろう。


  (3)松原通り

「ミヤコでは信者は四千人ほど住んでいます。この町は大きかったので、未信者に混じってあちこちに住んでいましたが、松原と言われる通りに住む人は一軒をのぞいて皆キリシタンでした」(1614年イエズス会年報)。

 菅大臣神社の南側の高辻のさらに一筋南、つまり菊屋町から薮下町の南の通りが松原である。正確な記録であると評価してよい。
 当時、下京の南の端が五條大路(現在の松原通り)であった。五條大路室町の藤原俊成屋敷跡に俊成ゆかりの新玉津島神社があり、大路には同神社の参詣道として道の両側に松が植えられていた。それが「五條松原通り」の名前の所以である。秀吉は南の六条坊門小路に五條橋を架け替えてそれを「五條橋通り」と呼ぶようになると、「松原通り」と呼ぶようになったという。
 新玉津島神社の参拝道である松原の商店街の人々がみなキリシタンであることは不思議な事実である。

https://kyotolove.kyoto/I0000002


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?