14.施薬院(やくいん)と ”施薬院全宗”

施薬院(やくいん)

 施薬院は、聖徳太子が慈悲の思想に基づき、薬草を栽培し、怪我や病気で苦しむ人を救うために作ったと言われる庶民救済施設。「施」の字はなぜか読まれないことが多く、中世以降は主に「やくいん」と呼ばれた。 この時代には施薬院はすでに衰退し形骸化していた。江戸時代の施薬院の場所は、御所蛤御門西側あたりを推定?詳細不明。

悲田院

 平安時代に京都には東西2ヶ所に福祉施設があった。碑文のある場所は東の福祉施設で京都中の捨て子や孤児、貧窮者などを収容していたという。

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   悲田院遺址:京都市中京区下丸屋町 河原町御池下ル西側。
         ゼスト地下よりエレベ-タ-を上がった正面。

人物履歴に先述した通り、小西行長の父小西隆佐はらい病患者の療養施設を開設し小西行長とオルガンチノらは孤児院を運営していたが、それ以前から悲田院や施薬院といった医療介護施設の文化があったことを注記しておきたい。


”施薬院全宗”(徳運)の暗躍と伴天連国外退去の発令

 キリシタンの歴史は暗転する。
 1587年(天正15年)、秀吉は、九州を制すると、突如、伴天連追放令を発令する。追放令を起草したのは秀吉ではなく、”徳運”(当時61歳)とされている。有馬領内で秀吉に献上するための女性をキリシタンが匿ったのを”徳運”が怒って秀吉に讒言したのがきっかけの一つ。


 ”徳運”は延暦寺の僧侶で比叡山に暮らしていたが、45歳のとき信長に焼き討ちされて還俗。その後、曲直瀬道三に入門して医術を修め、秀吉の侍医になると側近として政治に手を染めていく。「言ふところ必ず聞かれ、望むところ必ず達す」ほどの秀吉の側近であった。
 ”徳運”は、1585年、疫病の流行を契機に、当時既に廃れていた「施薬院」の復興を願い出て許可されている。自ら施薬院を苗字として、全宗と名乗った。

 この政治的な人物が悲田院や施薬院の思想を引き継いだはずがない。「施薬院」を名乗ることを願い出るのは道三受洗の翌年のこと。キリスト教とその信徒を憎んでいた”徳運”は、キリシタンである小西父子の癩病救護活動などについても苦々しく考えていたはずであるので、何らかの政治的情念が「施薬院」を名乗らせたのではあるだろう。政治で得たお金は比叡山の復興に使っていたと考えられる。彼の「価値の基準」は人生を通して延暦寺にあるといえる。医術を修めても医師の倫理観はなかったのだろう。Wikipediaでは”徳運軒”と記述されているが、「フロイス日本史」では”徳運”。

 オルガンティノの手紙に『あまたの秀吉のための遊郭と化した御殿の女性たちを集めて回っていたのが”徳運”である』と記録されている。事実を後世に残したのは万事に正確な情報に拘るフロイスたちだった。

『美貌の娘や若い婦人で彼(秀吉)から免れうるものはいませんでした。...こうした色事の取持ち役を務めたのは”徳運”(施薬院全宗)と称する...老人で、当初は比叡山の仏僧であり、...公家たちの娘をも”徳運”を通じて呼び寄せたが、誰一人遁れることができませんでした(豊臣秀吉篇Ⅱ第20章)。』『...堕落した生活を送っているこの人は....これまでの経験が示すように...我々の強い敵である。(日本二十六聖人殉教記36P)』『ユウアンという医師がその場にいて、施薬院が備前殿と次の話をしたと伝えた。「...日本は神仏の国であるので...我慢できない。私はその教えを非常に憎んでいる...」(同42P)』

 秀吉のために美女を集めて回るだけの作業にその情熱は理解しがたい。自らが献上前の女たちの体を検めるなどして愉しんだのではないのか。医術の資格も利用できただろう。秀吉が晩年に女色に狂うような解釈がされてきたが、密教にこのような逸脱した価値の基準を見つけることは可能であるので、徳運が政治的な権力を強めるに従い、歪められた宗教的情熱を満たすことに成功していったと解釈することが可能となる。信長による比叡山の焼き討ちや信長に庇護を受けたキリシタンとその教義に対する憎しみも複雑に絡み、その後の歴史は積み重ねられていく。

 明智光秀とも交流は深かったので延暦寺山麓の坂本を熱心に治めていた光秀にうまく偽の情報を掴ませるなどして本能寺の変を導いた”徳運”黒幕説も想像は可能である。”徳運”には信長を葬りたい明確な理由があった。


「へうげもの」における「伴天連追放令」描写の誤り

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 「へうげもの」では、秀吉がフスタ船に乗り込むと大砲が据えられており「この船を売って欲しい」という秀吉にコエリョが「これは売り物ではない」と返事して「なぜこれを見せるのか」と激怒するシーンが描かれている。ガスパール・コエリョのWikipediaにもそのエピソードが記載されているのだが....。

 しかし、「続・フロイスの見た戦国日本」 (中公文庫)の中で、翻訳者の川崎桃太先生は 、「フスタ船で秀吉が関心を向けた「ボンバ」を最初は「大砲」と翻訳したが後に「ポンプ」のような仕組みのことを言うことが解り誤訳してしまった」ことを邂述されている。機械の仕組みに、秀吉は関心を寄せたのであって、史実は漫画にあるような緊迫した場面ではなかった。フスタ船は小さな島々を周遊するのに向いていた。小さな船ではないが、大砲をぶっ放すような大きな船ではない。
 ”フスタ船”の視察後に秀吉の態度は豹変するが、その理由は、直前の1つや2つの理由ではなかっただろう。




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