11. 細川ガラシヤの受洗と監禁生活
細川玉(ガラシア)の受洗
家から一歩も外に出られない玉は侍女からもたらされる新しい教えを聞くにつれ関心が増して受洗を決意していた。監視の隙きを伺い侍女に囲まれ身を隠して教会に赴き修道士に蓄積していた疑問を質した。修道士は「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と回想した。服装や振る舞いから高い身分の女性、秀吉の側室である可能性を察したので、修道士は同日の洗礼を見送った。籠で家に連れ去られていったのでそれを尾行して細川玉であることが知られる。
常軌を逸した夫(細川越中守忠興)から監禁生活を強いられていた玉は、大阪に来た22歳から死亡までの16年間に外出できたのは、ただこの一日だけで、その後の生涯で司祭とは手紙のやり取り以外に一度も対面して話すことはなかった。周りの侍従たちが次々に受洗する中、玉の洗礼を受けられない苦しみは、次第に何を仕出かすのかわからないほどの極限に達していた。
伴天連国外退去命令が出て状況が切迫したため、司祭らは侍女頭の清原マリアに受洗の儀式のやり方を教えて、”神の恵み”(ガラシア)の洗礼名を授けた。
ガラシヤは、残忍な夫との関係に悩んでいたが、あるとき、「人の道に外れたこと」をさせられるように夫に仕組まれたことをきっかけに、繰り返し、離婚して西の教会に逃げたいと小豆島に隠れるオルガンチノに相談していた。しかし、それはガラシヤ個人の身の上に留まらず、施薬院全宗(後述)が背後につく見境のない細川越中守を”切れ”させてしまうので、ガラシヤの家族、侍女たち、そしてオルガンチノと西方(九州)のキリシタン社会の破滅をも意味していた。ガラシヤには、親元、明智の人々は死滅して、後ろ盾はなかった。
ガラシヤの監禁生活
「人間の本性から外れたこと」(手紙に書けないようなこと)の実態はわからない。侍女や妻が残した忖度のないイエズス会の記録が示す、忠興の人間としての魅力は極めて希薄である。茶道の書物には「日本一切れやすい男」と記録されている。おそらく普段は気が回る物腰の低い柔らかな人当たりの人物だろう。しかし、突然切れて立腹するから自分が攻撃されないために、武将たちはこの人といても全く気は休まらない。キリシタン嫌いも耳鼻殺ぎも女色も時の権力者(秀吉と施薬院全宗)の悪い部分を真似たもの。イエスの言葉も同僚の高山右近や妻から何度も何度も聞いたがそれは心に響くことはなかった。降伏した敵兵は戦のたびに皆殺しにする。関ヶ原で136の首をあげたと記録されているが戦いではその数字は出ないので何本も刀を変えながら既に降伏した弱者の首を切って数字を上げたに違いない。
カトリック玉造教会(大阪)
:大阪府大阪市中央区玉造2丁目24−22
「越中井」から信号を渡り屋敷跡にある公園の外側。1894年に玉造教会が建立されたが、現在の聖堂は1963年のもの。正面の大壁画と左右の壁画は堂本印象画伯の筆。十字架の道行などにオーストリア人彫刻家ルンガルチェの木彫など。屋外に細川ガラシヤの銅像がある。玉造を更に進むと空堀町がありその先が真田丸の跡地。
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