【朗読】フットワーク重め
はじめに
友人と会う際、かなり前持って日時の予定を組むタイプだ。
数日前から当日にかけてのお誘いは、どんなに仲が良い友人でも躊躇する。
正直言って数ヶ月前から入れておきたい。予約の取れないお店のようにできる限り先の予定であれば、本番を迎える為の心構えができるというものだ。
毎日予定を数時間刻みで入れているが、その多くは自分自身で完結するものばかりで、他の人と都合を合わせる頻度も少なくなった。
断る際にいちいち理由を言わなくて良いし、説明したとて欠席する事実は確定しているのだ。過程を説明して満足するのはこちらのエゴだろう。
予定を入れるのは好きなのだが、なぜ人と会うのが億劫なのか。
疑問形式で一度考えてみたい。
会う目的は明確か?
この件に関して要件定義をするならば、最も重要なのは目的である。
個人的に、目的の不明瞭な会合は出来るだけ参加を避けたい。目指すべき方向が定まっていれば、主体性を持って臨める。あるいは進む
べき方向に推進力が働いているか、その評価も容易だ。欠席の判断も容易い。
友人から久々に連絡をもらった時、「どうして連絡してきたんだ?」と思うあの不穏な感覚に近い。例えそれが壺でも水でもいい、とにかく早く本題に入ってくれれば判断ができる。コンタクトを取ってきた相手の意図が重要だ。大前提としてとりあえず会う、話すというのは基本的に時間の無駄になる。
私が人を遊びに誘う場合のフローから考えてみる。
まず、自分が直近で足を運びたい娯楽の類を思い浮かべる。
例を挙げてみると「映画館」「美術館・特別な展示」「ジャズバー」「ライブ・フェス」「サウナ」「釣り」「麻雀」こんな具合だ。
次いで、その娯楽の延長線上にいる友人を考える。
候補各員の嗜好性や知見、共通の話題を思い浮かべる。
このバンドが好きだといっていたAと一緒にライブに行ってみよう。
Bには進めているプロジェクトの進捗やイベントの近況報告を聴きたい。
暫く連絡をとっていないが、まだCが釣りに興味があるなら誘ってみようかな?等と、会う為の骨格となるテーマが作られる。
一緒にいる時のお品書き、話すアジェンダを作る感覚だ。
お互いの適性は何か
話したいトピックは何か
何をした時に最も楽しいか
私がその人と一緒に何をしたいか
私が相手から何をすることを求められているか
無論、その友人と会う事や話す事(生存確認・近況報告や情報交換)が目的になる場合もあるが、今日まで長く関係性を築けている友人とは上記の要素が明確だ。だからこそ、その時間を最大限楽しむ為の事前準備ができる。
至上命題は「体験を通して心が動く事象の発生を期待しつつ、共に楽しむ事」だ。
その過程、つまり「何を行うか」に「時間・金銭・体力」のリソースを配分し、最終的に「誰と行うか」この箇所の穴埋め問題を解くことだ。
欲望を達成する為の行動を起点とした順序である。
逆に言えば、「資格の勉強」「音楽のレッスン」「ジム」「茶会」「MENSA」「クレー射撃」といった、はっきりとした理由と時間が決まっているものは優先順位が格段に上がる。上記の予定を退ける事で成長という観点での機会損失が発生するからである。
単なる情報収集を目的とした作業的な集まりの場合は、正月やお盆など、一般的にまとまった休みの期間にぽちぽちと入れる範囲で、これは家族との付き合いに似ている。
家族と一緒にいる時、「楽しい」を達成する為に、特別なことはしない。それは既に別の時間に委託しているからだ。「その場にとりあえず居る」事が目的である。
過去、参加した際にどうだったか?
これはある種の決め付け前提で話が進んでいる事を念押ししておくが、
相手と「具体的に今、もしくは未来の話」ができるか?
これは非常に重要な問いだ。
時間が経過している場合、私の最後の記憶にある友人の状態から進捗があるかもしれない。あるいは私の知らないところで嗜好の枝葉を伸ばしているかもしれない。実際に話してみないと情報が更新されないのは事実だ。
しかし、その疑念がポジティブに機能する場合は限りなく少ない。
人間にとって根本から哲学や価値観が変わるには、数年単位でも足りないと考えているからだ。変化を安易に口にする事は、当人にとってその変化が特別である事を示唆する。総じてその凡庸さと判断の早さから信頼を失う可能性が高い。
そして多くの場合、人は相手が「以前と変わらないこと」を望んでいる。
「わかる範疇、想像可能な範囲に相手がとどまっている事」を求めている。
上記が達成されれば、タイムカプセルのように当時の温度感で接することができるし、同じ話題のスライドで関係を修復できるからだ。
しかし相手が「以前と立場や問題意識が変わっていたり、認知し得ない領域に興味を持っていたら」きっと居心地の悪さを感じるだろう。経緯に困惑し、話をしても意図が伝わらないことさえある。それはその関係性の破綻の兆しを意味する。
「学生生活を楽しく過ごす」という共通の目的がもう無いからとても脆い。
「これからの人生を楽しく過ごす」「自分の能力や関心の領域を拡張する」という目的にシフトチェンジできるかどうか。それは共通の話題として逃げやすい思い出話をしなくても関係性が成立している必要がある。
「昔話に花を咲かせたい」という人達も一定数いるのは理解しているが、過ぎ去った大抵の事は今の時点で重要ではない。
そこに学びはなく基本的に停滞している。
イニシアチブは誰が握っているか?
参加メンバーの中で発起人がその計画の舵取りをするだろう。
その際に、本番ではどのような人物の動きが想定されるだろうか。
例えばそれがパーティーのような大人数での会合であった場合、話したい友人との時間を十分に確保できない可能性は非常に高い。
またその発起人が達成したい事項が仮に「初見同士の交流の活発化」であると仮定した場合、あえて無法地帯にしたり、介入の手を加えないことで生まれる無作為な人同士の反応を楽しみにしている可能性すらある。闇鍋だ。
臨機応変に対応可能なディレクション体制がその場に確保されているか。
またイニシアチブを握っているであろう人物は、こちらの心理的安全性まで十分に配慮してくれるだけの余裕や能力のある人か?
その人が複数人数内で機能するとき、どのような動きを率先していたか?
個人で会う時の差異はなかったか?
この問いは精神的に逼迫する可能性が高い場合、特に重要な項目となる。
英気と体力が十分に満ちている時にだけ、無秩序に飛び込みたいのだ。
この程度の我儘は友人に求めても良いのではないだろうか?
終了時間の目処は立っているか?
始まりがあれば終わりの時間はつきものだ。
何時に終わることが想定されているのかも明確にしておきたい。
予定が思いの外早く終わった際に、別日に移動しておいた保険の予定をそのまま入れておけば良かったと天を仰ぐこともしばしばある。
逆に言えば、やむを得ずに途中離脱する際も事前にその事を相手方に伝えられるし、終わりの時間を意識して、ある程度のピークを作り出す努力はできる。
逆算してとまではいかないが、時間的制約が明確化されていた方が目一杯その時間を楽しもうという気概が生まれる。これは心理的側面が大きい。
そして時間を多めに見積もる分には基本問題ない。当初設定していた時間が大幅に超過してしまう事。これを事前予測できない事が億劫なのだ。
その予測を元に次に予定を立てるとき、誤差の少ない計画になる。
終わりの時間が明確に決まっていれば、その後の余白時間に何が出来るか、努力目標の計画を立てる事ができる。私は時間を目一杯使いたいのだ。
終わりに
ここまで展開した論理は、いずれも自分が発起人になった際や、友人を誘う際に自問自答している事だ。
余談だが、私は会社の飲み会の2件目が大嫌いだ。目的も終わる時間もイニシアチブの所在もない。何もかもが不明瞭でいい加減だ。強いて言えば終電というタイムリミットがある事が救いだが、それは明日への準備という点で最後の手段だ。挙げ句の果てに当人は酔っていて覚えていない場合が多い。
「楽しむ」という目的ならば、私には「酒」の必要性が薄い友人が数多く存在する。時間内にアジェンダを完遂し、今後の付き合い方の指針とする情報交換の機会でもあるのだから、認知能力は下げない方がお互いの為だ。
私たちは次会うとき、どんな事をしたらお互いが楽しく過ごせるのか?
次会うまでにどのくらいの期間を空けた方が都合が良いのか。
その疑問を解消できた一人の帰り道が、最も心地良いのだ。
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