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【小説】幸せのかたち

【幸せのかたち】
お題:『幸せすぎて泣きたくなるの』
https://shindanmaker.com/392860

 私の余命について告げられたのは一ヶ月前。それから、私は夫の勧めもあって自宅で過ごす事にした。諦めからくる後悔よりも、選択のもたらす結果を受け入れると決めた。
 それからの日々を、私は毎日夫と共に過ごした。夫は自由が利かない私の代わりに家事をしてくれ、私と共に窓の外に見える景色や読んだ本について語り合った。毎日が穏やかに過ぎて行って、この安らぎが病魔によってもたらされたものでなければどれ程良かったか、残念に思う事は少なくなかった。
 読んでいた本を閉じて窓の外を見遣る。もうすっかり桜も満開で、時折風に揺れて花びらが雪のように舞っていた。余命を考えると、来年の春は迎えられそうになかった。
 目に焼き付けておかなければ。そう思う事も増えた。私に残された時間はもう長くないのは自分でも分かっていた。
「起きていたのかい」
 手に飲み物を持った夫が部屋へ入ってきた。私は頷き、彼へ微笑んでみせる。
「今日は調子が良いみたいなの」
「そうか、それは良かった」
 サイドテーブルへ飲み物を置いて、私の傍へ腰掛ける。本の上へ置いていた私の手を取り、優しくさする。少し皺の増えた温かな手。若い頃はその手を取って、二人で街を歩いたものだった。何もかもが煌めいて、優しく感じられた日々。歳を重ねてもそれは変わらなくて。今もこうして、あなたの瞳の奥にあの頃の輝きを見て、私は何度でもあなたへ恋をするのだわ。なんて伝えたら、あなたはどう思うかしら。
「どうだろう。あまり遠くには行けないし長居は出来ないが、少し外へ出てみるかい」
「まあ、いいのかしら」
「君さえ良ければ」
 もう一度頷く。夫は「じゃあ、準備をしようか」と私の手を名残惜しそうに離してから立ち上がった。外に出るのはいつぶりだろう。家へ戻ってきた時以来だろうか。
 程なくして夫が上着と車椅子を押して部屋へ戻ってきた。彼に抱えられて車椅子へ座り、一ヶ月ぶりの外へ出た。家の側に咲いていた桜の木を見上げて、思わず目を細める。
「少し前まで雪が降っていたなんて思えないわ」
「そうだね。今日が暖かくて助かるね」
「そうね」
 夫に車椅子を押してもらいながら、移りゆく景色を見遣る。一ヶ月前は春の気配すらなかったのに、今日はこんなにも暖かい。自分が死の間際にいるなんて夢のように思える。こんな穏やかな日々が、これからもずっと続いていくと信じてやまなかったのに。
「ねえ、あなた。行きたい所があるの」
「何処だい?」
「桜並木のある土手まで、いいかしら」
「勿論だとも」
 それから暫く住宅街を進み、橋のたもとから土手の遊歩道へ降りる。川沿いの桜並木はちょっとした名所で、休日になれば沢山の花見客で賑わう。今日は平日だったから人もまばらで、車椅子で少し進むくらいなら問題なさそうだった。
「ここらでいいわ。ありがとう」
「分かった」
 ストッパーを掛けて、夫はすぐ側のベンチへ腰掛けた。私が元気ならお弁当でも作って二人でお花見が出来たのに、なんて。今更叶いもしない事を想像してしまう。それは自分を悲しくさせるだけだから、考えてはいけない類のものだったのに。彼とやりたい事がどんどん増えて、その度に思ってしまうのだ。
「大好きよ、あなた」
 自然とそんな言葉が出た。彼は何も言わず、そっと私の頬へ触れた。そう、そうよ。私はあなたが大好きなの。少ない命をあなたと共に過ごしたいと願うほどに、あなたを愛しているの。
 私を見つめるその瞳に、やはりあなたの輝きを見出してしまう。私を慈しむ心を感じて、幸せな気持ちが胸を満たしていく。
「泣かないで」
 頬に触れていた彼の手が、私の溢れる涙を拭っていく。その指先も温かくて、私へ向けられる好意ひとつひとつに胸が熱くなった。
 ああ、幸せすぎて泣きたくなるの。あなた。
「愛しているわ」

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