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【小説】朝食は幸せの後に

【朝食は幸せの後に】
お題:『一生分の幸せを』
https://shindanmaker.com/392860

 予定より少し早く目覚めて、寝床代わりにしていたソファからそろりと立ち上がる。物音を立てて彼を起こしたくなかった。静かにリビングを出て小さなキッチンへ立つ。あまり手の込んだものは作れないけれど、彼は和食でも洋食でも好きだった筈だから、冷蔵庫の中身と相談しよう。
「ううむ」
 中を覗いて、あまりの食材の少なさに閉口する。一人暮らし故か、食材を買い溜めしない事が仇になってしまった。仕方なく、あり合わせのもので調理に取り掛かる。こうして誰かの為に食事を作るなんて久々だったので、私の代わりにベッドで寝ている彼——十数年来の付き合いである先輩の事を思った。学生時代はよくお互いの家へ転がり込んでは朝まで飲み明かし、ふらふらになりながら質素な朝食を共にしたものだ。しかし、お互いに社会人になって。先輩が結婚して、子供が生まれて。私も仕事で然るべき立場に就いてからは、こんな風に共に朝を迎える事も少なくなった。
 懐かしい。様々な事を思い出して思わず目を細める。学生時代の、大人でも子供でもない時期に、彼と一緒に過ごせた事は幸福だった。私が彼を好きになって、その想いが遂げられなかった事も。
 あの時確かに、私は一生分の幸せを得たのだ。
 結ばれない事が幸福だなんておかしな話かも知れない。私の想いを知りつつ許容も拒絶もしなかった彼と、彼に想いを告げつつそれ以上の進展を望まなかった私で、奇妙な利害関係が成立してしまったのだ。想いを告げた、というのは正確ではなかったか。多分お互いに感じ取っていた気がする。
 私は何処か、自分の想いが遂げられない事を理解していたと思う。何故なら、私は彼と同性だったから。
 私達が学生だった頃は、まだ今ほど私のような存在に対して理解が進んでいなかったように思う。それでも、先輩は私を拒絶せず、同時に受け入れもしなかった。理解はしても、自ら踏み込んでくる事はしなかった。そして私も。私達はそれを良しとして、現状通りである事、ありのままである事を選んだのだ。
 だから幸せだった。一生に足りる幸福を手に入れた。想いが遂げられず恋い焦がれ、かつ貴方の側にいる事を許されたのだから。彼は私の想いを悲劇にしなかった。それだけで十分だった。
「おはよ」
 いつの間にか先輩がキッチンの入り口に立っていた。だらしなく服の間に腕を突っ込んでお腹を掻いている。ああ、もうどうして。こんな人を好きになったのだろう。私は苦笑しながら「おはようございます」と返す。
 まあ、そういう所に惹かれたのだけれど。
「美味しそうな匂いがする」
「ああ、鮭を焼いています。これから厚焼き玉子も作りますよ」
「ほんと? めちゃくちゃ嬉しい。お前の手料理好きなんだよね」
「それはどうも」
 にっこりと笑ってみせる。先輩は嬉しそうに目を輝かせながら、私の手元で美味しく焼き上がろうとしている鮭を見ている。
(子供っぽいのは相変わらずですね)
 口には出さなかったけれど、そういうところも可愛らしいと思う。年の割に若く見えるのは、彼が元来持ち合わせている無邪気さに由来するのだろうか。それでいて、仕事の時はしっかりと現場の指揮を執るのだから驚きである。
「見ていてもすぐには出来上がりませんから、先輩はゆっくりしていて下さい」
「ん」
 素直に頷き、踵を返してリビングへ戻る先輩を見遣る。すると先輩は立ち止まって、顔だけこちらに向けて言った。
「お前とこうして関係を続けられていて幸せだよ」
「——ええ」
 ええ、ええ。私もですよ。貴方が幸せだと感じてくれるなら、それは私の幸せでもあるのですから。
「これからも、ずっと」

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