食事


最近「食べる」ということについてよく考える。
食べることは生きること。
以下に引用する、Tumblrで見つけた文には「家族というのは基本的に『会食する集団』でしょう」とある。

“家族というのは基本的に「会食する集団」でしょう。デートというのも基本的に「いっしょにごはんを食べに行くこと」ですよね。どうしていっしょにごはんを食べるのかって言えば、ごはんを食べているときに、美味しいかどうかで、その人といて楽しいか楽しくないかが分かるからですよ。家族でごはんを食べるのは仲がいいから食べるんじゃない。その逆です。「いつごはんがまずくなるか」をチェックするために、いっしょにごはんを食べる。ぼくはそう思っているんです。 ごはんを食べていてまずくなったら、それは家族の危険信号なんです。だいたいテレビドラマでも、家族の間に亀裂が入ると言うときは、ちゃぶ台をひっくりかえすか、作ってくれたものを残して「もう、いらない」と席を立つ場面ですからね。 セックスするまでもなく、男と女はいっしょにごはんを食べるだけで、いっしょに居られる人かどうかはわかるんです。うまくゆかない相手とだと、ごはんの味がしないから。「味がしない」というのは、「この人といっしょにいても、あなたの心身のパフォーマンスは上がらないです」って身体がシグナルを送ってきているわけですから。いくら頭が「いっしょにいるほうがいい」というメッセージを送っても、消化器の方が「いやだ」って言っている。だから、食事の時にたわないことをしゃべっていても、やたら食が進んで、「おかわり」と言える時は、身体が「この人とは相性がいいよ」って教えてくれているんです。(P.57)”
—『身体知 ~身体が教えてくれること~』 内田樹 × 三砂ちづる

一緒にごはんを食べていておいしいとか楽しいと感じるかどうかは重要なことだなと最近つくづく実感している。

以前にTwitterでも話したように、食事というのは宗教や文化と結びついているとてもデリケートな問題でもある。食事はアイデンティティであり、社会的行動であり、コミュニケーションの場でもある。
簡単に、○○人はなぜあんなものを食べるのかと批判したり、他の人が作ったものや食べているものを馬鹿にしたり、貶したりしていいものではない。

ある時、インスタグラムで知人が「みんながおいしいおいしいって食べてる○○って化学調味料だからね(笑)グルタミン酸ナトリウムを自分が食べるのも嫌なのに子供に与えるなんてどうかしてる(笑)」という旨のストーリーを上げているのを見て絶句してしまった。
確かに、化学調味料は色々な食べ物に入っているし、それが体に良くないとする研究もある。
過剰な摂取はよくないと思う気持ちは分かるし、子供ならなおさらそういう体に良くないとされるものを与えたくない気持ちもわかる。
しかし、他人の作ったもの、食事や食卓の風景を見て悪意ある見下したような言い方をして良いはずがない。
もし自分の親が作ったものをこんな風に馬鹿にされたら…と考えただけでも泣きたくなってしまった。
専門家でも文化人類学者でも社会学者でも心理学者でも何でもないので他の人間の行動や人間の心のことは何もはっきりとわからないが、相手が虚しくて悲しいという気持ちになることが明確に分かるし、この知人とは一緒に食事をしたくないということだけははっきりと分かった。

冒頭の一緒にごはんを食べていて楽しい人の話に戻ると、食のこだわりや好みが合うかもそうだし、相手といるときに「おなかがすいた」と感じるかどうかも重要だと思う。
人は好きな相手と一緒にいると安心して「おなかすいた」や「ねむい」といった気持ちになりやすい、とどこかで読んだことがある。
なので、気になる相手が「おなかすいたー」と目の前で言ってきたとしたら、相手は自分に気を許してリラックスしてくれているということなのかも。(でもそもそも緊張するような相手に「おなかすいた」とか「ねむい」とか言わないよな、とこれを書いていて思った。)

恋人はこれも読んでいるのだろうか。
私の恋人は料理を作るのがとても上手だし、調理器具もたくさん持っているし、作ってくれたものはいつも本格的でとてもおいしい。一緒におうちでご飯を食べるのも、外食をするのもどちらも楽しい。きっと身体も心も「相性がいいよ」と言ってくれている。

でも、たまに苦しくなる。私の作ったごはんは果たしておいしいと思ってくれているのか、私と食べるごはんはおいしいのか、恋人はおいしいと思っていないのに気を遣わせてないか、私が(有名なお店や食べ物や料理のことについて)よく知らないせいでやきもきしたりしていないか、いつか(お互いに)ついていけなく/楽しくなくなってしまうのではないかなどと考えてしまう。
自分に自信がないことと食事。関係ないようでいてとても関係していて、食べることは生活であり、社会的行動なんだと実感する。
こんな風に不安に思うのは、私はそこまでのこだわりや丁寧さ、情熱や執着みたいなものが食に対してないからだ。料理を作るときも簡単に作れる方法があるなら甘えるし、手間を省くからたまに失敗もするし、おいしいお店もあまり知らないし、外食欲もそこまで強くない。(お家で食べるごはんが好き。)おいしいものを食べても「おいしい~」という感想以外うまく言い表せないし、人の作ってくれたものはたいていおいしいので(度を超えたやばいもの以外)、「あまりおいしくないね」と言われたときに反応に困ってしまったりする。
違う記事にも書いたかもしれないが、ひとりで暮らしていたらお肉はほぼ買わず、ベジタリアンかペスカタリアン(またはぺスコベジタリアンという魚乳製品卵野菜食主義者のこと)のような食生活になる。面倒だからとか節約したいからとかそういった理由ではなくても質素なごはんが好き。
もっと食に対して意識が高ければ、とかもっとおいしいお店を知っていればと思うことがないと言ったらうそになる。

なんにせよ恋人とおいしいごはんを食べるのは楽しい。特別なものなんていらない。二人でごはんを食べるだけで楽しいのはすごいことだ。これは本当だから、もしこれを読んでいたとしても傷付いたり責められていると感じたりしないでほしい。
何かを改善してほしい訳でも話し合いたいわけでも何でもなく、私は自分の気持ちを文字にしたいだけ。そういう気持ちだけでこの記事を書きました。

あまり考えすぎないようにしよう、と思っても常にいろいろなことを考えてしまう。
良くない癖のひとつなのかもしれない。
書き出したら少しすっきりした。
アウトプットは必要。

季節の変わり目、皆さまどうかお元気でお過ごしください。
またのご訪問お待ちしております。(?)

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