夜は短し歩けよ乙女 読書感想 2/2
「初めて言葉を交わしたあの日から、彼女は我が魂を鷲摑みにし、そのたぐいまれなる魅力は加茂川の源流のごとく滾々と湧き出して尽きることがない。」
「雲霞の如く発生する即席恋敵たちに私の苛立ちは募り、彼らの方を摑んで『彼女はおまえらなど眼中にない!』と宣言したくなったが、相手へ放つ毒舌の矢はより勢いを増してこちらへ跳ね返る。
『チクショウ、俺も彼女の眼中にない!』と私は呻いた。」
感想1/2で紹介した「地平線上に~」と同様、この2つの文章もまた森見節の発動であるといえよう。「加茂川の源流のごとく滾々と」というような誇大なまでに壮大な文章に加え、「即席恋敵」という創作四字熟語。まさに森見を至近距離で堪能できる一節である。
この2つを並記したのには理由がある。
それはすなわち、この2つの文章から主人公の自意識がありありと伝わるためである。
どういうことか。
要旨のみを切り取って考えてみよると分かりやすい。
上の文では主人公が彼女(メインヒロイン)に一目惚れしたということが伝えられている。
一方、下の文では主人公がメインヒロインに一目惚れした自分以外の男を「凡俗だ」「浮気だ」と糾弾しているのである。
つまりこの主人公は、メインヒロインに対する自分の一目惚れを特別視して棚に上げ、他の男のメインヒロインへの恋心をこき下ろしているのである。
客観的に見ればこの2つは本質的に同様なのだが、自分の恋心を純正化し、一方で他人の恋心を蛇蝎のごとく嫌悪する様は実に滑稽である(下の文では後半に自分でそのことに気づいてしまっているが)。
この文章の面白いところは完全に主人公が狂人的だと言い切れない点である。
性質は根っこのところでは同じであるにも関わらず、自身を正当化し他人を貶めるという行為を我々は無意識に行ってしまうことがある。
そしてそのことに気づいた時は、深い自己嫌悪に苛まれたりするものだ。
然し、そんな時こそこの主人公のようにユーモラスに、アホらしく捉えれば良いのだ。
そうすれば少なくとも、自己嫌悪を引きずることはない。
森見の小説は、人文的には生きる活力を与えてくれるのである。
「韋駄天コタツ⁉コタツなのに韋駄天とはこれ如何に?」
韋駄天且つコタツ。
本当にどういうことなのか。
森見の小説には往々にしてこのような意味不明で妙ちきりんな名前の物体が登場する。
因みにこの韋駄天こたつとは学園祭を韋駄天の如き速度で移動する神出鬼没のこたつのことである。
このように、説明を加えても未だ意味不明な点がまた森見なのである。
この他にも「偽電気ブラン」「偏屈王」「詭弁踊り」など、実に印象的で愉快な響きの諸々が登場する。
揃いも揃って「なんじゃこりゃ」と言いたくなるような珍妙で真新しい響きは、最も効果的に我々を森見の世界観に誘う。
「どっこい、生きている」
この台詞は劇中で2度使用されている。
一度はパンツ総番長が病気を心配されたとき。
一度はラストシーンで屋上から飛び降り、生還した主人公が友人から心配されたとき。
どんな無茶や馬鹿をしたとしても、どっこい、生きている。
森見の小説の展開はまさに「どっこい」の連続である。
偶然に偶然を重ね転がり、正しい形にはならなくとも、歪んだ形のまま生きている。
この言葉が我々に物語るのは、「何事もそんなに気にするな」ということである。
小いさなミスでも、大きな挫折でも、死ぬことはほとんどあり得ない。
必要なのは強さや完全さよりも、柔軟さとユーモアなのだ。
それを表すには「しかし」や「それでも」という響きではいけない。
少し硬すぎる。
もっと愉快で阿呆らしく、ちゃんちゃらおかしいような響きの言葉が望ましい。
そしてそれこそが「どっこい」なのである。
森見の小説ではこのように気付きを得られる言葉が唐突に現れるので気が抜けない。
ここまで読んでいただき誠に有り難いものである。
皆さんに森見登美彦という小説家の魅力が伝わったのであればそれ以上に幸福なものはない。
彼のような奇天烈な作家を私は他に見たことがない。もしそんな稀有な存在があるのなら、このサイトのコメント機能を使って教えていただきたいものである。
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