夜は短し歩けよ乙女 読書感想 1/2
「敬愛する作家はいますか」と問われた際、皆さんは誰の名を挙げるだろうか。
私がイの一番に挙げる作家の一人が、森見登美彦である。
森見の小説の何がスバラシイかというと、ずばりその文調と言える。
軽やかでありながら印象的に、誇大でありながら適切に紡がれる言葉の調べはまさに「森見節」としか言い表すことが出来ぬ代物である。
私が森見登美彦を知ったのは13歳の頃であった。
担任の先生が貸してくれた森見の小説は中学生の私にとって手に余る多字長文であり、ついぞ読み終えることが出来なかったのは苦い記憶である。
そして、その森見の小説こそが『夜は短し歩けよ乙女』であった。
時を経て数年後、能力的にも時間的にも余裕の生まれた私が『夜は短し歩けよ乙女』を今読み返す。
それでは、早速。
「地平線上にクリスマスという祭典がちらつきだし、胸かき乱された男たちが意図明白意味不明な言動に走り出す暗黒の季節の到来を告げるのは、学園祭の開催である。」
これこそまさに森見節!と喝采を送りたくなるような文章である。
この文章の中でも、私は以下の二点の表現を特に白眉と言いたい。
一つは「意図明白意味不明」という表現である。
まったく意味不明なのであるが、何故か、意図が分かってしまうような言動。
森見の小説においてこのような創作熟語は頻出である。
それらの熟語は非常に複雑で、一見難解なものに感じられるが、蓋を開けてみればそれは私たちの生活を取り巻く「あるある」なのだ。
人間の面倒くさく煩わしい部分をユーモラスに熟語としてあらわす表現は、間違いなく森見文学の愉しみの一角と言える。
もう一つは「暗黒の」という表現である。
森見の文調の性向として、明らかに場違いな表現が意図的に文章に組み込まれることがある。
「クリスマス」「学園祭」の話の中で、尋常であれば「暗黒」という表現は結び付かない。たとえ語り手がこの二つのイベントを忌避していたとしても、多くの作家は「厭な」「不愉快な」というような語彙をピックするだろう。
そこを「暗黒の」で駆け抜ける作家こそ、森見なのである。
ともすれば誇大な表現を読み手に納得させるのは、語り手の一貫した滑稽さに違いない。
正直これについては、説明しがたいために読んで確かめていただくのがベストではないだろうか。
「学園祭とは青春の押し売り叩き売り、いわば青春闇市なり!」
この言葉もまた金言である。
学園祭とは学生が自身の趣味趣向を売り物にし、来場客に無理強いして購入させようという意図の祭典。
傍から見れば何の面白みもないものを「青春」として売りつける倒錯を闇市という言葉に託して表現した言葉である。
語彙表現もさることながら、何より森見の体臭であるのはその卑屈さである。
卑屈と言ってもそこからは陰湿さや下劣さを覚えることはなく、むしろその開き直った選民意識からは清々しい滑稽を感じることが出来る。
やはりこちらも先ほど同様、読んで確かめていただくしかない感覚である。
「戦友よ!屹立しているかい?」
卑屈さゆえに学園祭を楽しむことが出来ない主人公が、学園祭の雰囲気を意にも介さず毅然と秋空を衝く時計台に自身の在り様を重ねて放った台詞。
「屹立しているかい?」という文章のなんと美しいことか。
雄大さを感じさせる「屹立」と牧歌的な印象の強い「~~かい?」が並び立つ様は、異質でありながらも私たちの精神に訴えかけてくるような迫力がある。
こんな言葉が平常の生活において、自身の文学性から浮かんでくるとしたらどれ程楽しいのであろうか。
生活中の語彙を増強するといった意味でも、やはり森見の小説は読まねばならない。
彼のような奇天烈な作家を私は他に見たことがない。
もしそんな稀有な存在があるのなら、このサイトのコメント機能を使って教えていただきたいものである。
後編に続く。
https://note.com/fresnel_lens/n/na9bc393b805a?sub_rt=share_b
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