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表現の自由はどこまで許されるべきか

さっき読み終わった本は福島章氏の「犯罪心理学入門」である。
これは、以前紹介した「犯罪学入門」と比べると、読み応えがあって、完全上位互換と言える。
そもそも、著者は社会学者ではなく犯罪精神科医なので、そちら方面の専門的知見が垣間見える書籍になっている。(勿論、入門書なので結構平易に書かれているが…どうも上智大学での文系学生に対する講義資料抜粋らしい。)
やや古い本なので、事例が古いのと(本人の職業柄、当事者を相手にしてたので、執筆時から見てもかなり古い事例が採用されている。)古い用語が使われている(精神分裂症(今で言う統合失調症)とか。)などがあるが、読んで損はない本だと思う。

さて、本題の方はこれまた本とはあまり関係のない内容である。
旧Twitterでは、表現の自由論争というものがあった。
表現の自由はどこまで認められるか?という論争である。
実際問題、色んな派閥があり、大体が火種を作るフェミニストを中心とする「お気持ちで表現の自由を制約できる派」から、リベラルアンフェ界隈に多い「表現の自由原理主義派」まで、多様である。
私は中庸を自認しているので、「表現の自由は最大限に尊重されるべきだが制約はある派」という極めて穏当な立ち位置である。
そもそも、現代社会の基礎である人権の中でも自由権は割と強めの権利である。
特に、思想・良心の自由に関しては、最上位であり絶対不可侵の権利である。
内心に留める範囲においては、殺人や強姦の欲求があろうと、共産主義や全体主義、イスラム原理主義、中核派やら革マル派、オウム真理教、どこぞのよく分からない黒魔術を信仰していようと構わないのである。
何故なら、人間の内心は客観的に観測できないため、その自由を奪うということは、何の根拠もなしにその人権を侵害するしかないのである。
であるからして、思想・良心の自由、つまり内心の自由についてはどんなものであれ無制限に認められなければならない。
当然ながら、それを表出させたら、ものによっては犯罪になるが…
そもそも内心で考えるだけならば、その内心は誰の権利をも侵害しないのである。
また、内心の自由を侵害する手段は、拷問であったり薬物投与であったり、非人道的手段に限られるというのもひとつの理由である。
人が生きる権利である生存権よりも内心の自由の方が上位なの?という疑問もあるかもしれない。
当然である。
何故なら、生存権は絶対的に保障される権利ではないからである。
具体例で言えば、死刑はその代表例である。
司法によって生存権を否定することが可能なのである。
この様に、人権にも明確に優劣があり、人権と人権が衝突する場合は、より上位の権利を基準として折衝を図る、という考え方になる。
そのための仲立ちをするのが憲法以下の法である。
さて、表現の自由は強力な権利であるとは述べたが、幾つかの権利は明らかに表現の自由よりも上位の権利があり、幾つかの権利は表現の自由との折衝が必要な権利である。
例えば、生存権は表現の自由に優越する。
であるため、他者の生存権を侵害する目的での表現の自由は認められない。
犯罪教唆などが代表例であろう。
もっとも、その理屈だと「死刑に賛成する自由」が奪われるのではないか?という話がある。
ただ、そもそも死刑になるのは他者の生存権を侵害した(殺人等)、または多数の生存権を侵害しようとした(外患誘致罪等)場合にしか適用されないため、これは例外として構わないだろう。
というのも、死刑になり得る犯罪が他者の生存権の侵害以上である限りは、死刑に賛同する意見は善良な人々の生存権を守れ、という主張に読み替えられるからだ。
死刑をなすことによって、善良な人々の生存権が直接的なり間接的なりに守られるからである。
戦争に関する言論も同様であり、戦争をすることで国民を守るという目的においては、戦争のできる体制整備の議論は当然するべきである。
そもそも、軍備がなければ抑止力が無くなるので、国民の人権が他国に侵害される可能性が極めて高くなるのである。
閑話休題、自由権とよく衝突するのが財産権や経済活動の自由である。
財産権を直接侵害する表現の自由は、例えば詐欺罪などはそれを防止するものである。
また、よくあるのが著作権や肖像権である。
これらは、オリジナルの表現者の権利を最大限尊重する観点から、表現の自由よりも上位の権利となる。
さて、では商業広告に対するクレームは?
勿論、理由の如何に拠るが、基本的には表現の自由を奪う表現は避けるべきだろう。
自由を奪わないクレームは勿論構わない。
営業妨害までやらなければ明確な規制する法制度は無いが、相当な理由がない限りは経済活動の自由+表現の自由なので、相当には権利が保護されるのである。
それは、決して「不快感を感じない権利」などによって侵害されてはならないのである。
そんなものを許してしまえば、あらゆる言論は「不快感を感じない権利」によって侵害してしまえるのである。
それこそ、フェミニストの主張には私は常々不快を感じているので、私が不快感を感じない権利を主張すればフェミニストは何も言えなくなってしまう。
本当にそれで良いのであろうか?
私はフェミニストの言うことには大体理がないと思っているので、彼女らを批判する。
しかしながら、彼女らの言論の自由を奪うべきだとは思わない。
正々堂々と、言論の自由を互いに行使して、フェミニストの欺瞞を暴いて正当性を否定して、自然にフェミニズムが消滅するのが最善だと考えている。
当然、どれだけゴミの様な主張が書き連ねられていようともフェミニズム本の出版の権利は守られなければならないし(私は買わないが…)、どれだけクソな主張を垂れ流すフェミニズムイベントの不快感満載の広告だろうとも、打って構わないのである。(私は行かないが…)
一方、性的表現、特に過激なAV等により、それを真似した犯罪が増えるから規制するべき、という主張もある。
文化的同一化理論なんかを持ち出す輩もいるかもしれない。
そう思うなら根拠を示せ、としか言えない。
我が国はAVをはじめ、性表現大国である。
かなり表現の自由を確保した状態で性表現が認められている。(謎の局部のモザイクを除いてだが…)
もしも、過激な性表現が犯罪を誘発するのであれば、我が国は性犯罪大国になっているはずである。
現実はどうだろうか?
性表現規制をしているほとんどの国よりも人口当たりの性犯罪発生率は遥かに低いのである。
こうなると、万万が一、過激な性表現が性犯罪を助長したとしても、それよりも性表現により性犯罪が抑制される効果の方が高くなる、と言えるのではないだろうか?
そうなると、性表現を無くすと、我が国の女性が性犯罪に遭うリスクが上昇する事にはならないだろうか?
そもそも、男性の本能として、一度射精したならば、しばらくは性欲が大幅に減退するのである。
俗に言う賢者モードである。
フィクションでシコっているキモオタは、むしろ安全だと言えるのである。
性的な画像や動画の撮影が性加害である、という主張もあるかもしれない。
まず、性加害として撮影されることはあってはならない。
リベンジポルノ(これについては撮影自体には同意しているケースを除く、それをばら撒かれた所で自己責任としか言えない。)や無理矢理AV出演させられた、なんてのは論外であり、法的にキチンと取り締まるべきである。
しかしながら、AV業界においては既にほぼ対策は終わっており、キチンと出演者の同意の上で撮影が行われているという現状がある。
同意した上で契約を交わしたのであれば、成人同士の責任ある行いであり、後から気が変わったとしても自己責任だとしか言いようがない。
むしろ、出演者の表現の自由を奪う事になりかねない。
未成年の場合はどうなるのであろうか?
この場合は、本人が責任能力が基本的に無いこと、責任能力がついた時点で後悔する可能性があることから、これについては規制されて当然である。
ただ、あくまで実写の話であり、創作物はこの範疇に入らない。
何故なら、被害者がいないからである。
ロリの性行為を描いたイラスト、漫画、アニメを作っても問題ないし、画像生成AIで女児の裸を生成しても問題がないのである。
何故なら、被害者がいないからである。
確かに被害者のいない犯罪というものも存在する。
それは社会秩序に対する罪であり、例えば麻薬等の濫用や売買春、猥褻物陳列罪等である。
個人的には麻薬の濫用は規制すべきとして、その他の被害者のいない、つまり人権を侵害される人のいない犯罪は、今後無くしていくべきだと思っている。
愚行権とも呼ばれるが、本人が変な目で見られたり、本人が貞操を散らしたり性病にかかるくらいのリスクは国家が面倒を見る必要はないのである。
現行の法律で規制されている以上は、その範囲内で表現の自由を行使するべきであるが、他者の人権を侵害しない限りにおいて、今以上の人権を侵害する法案を作るべきではないし、今あるそうした法も段階的に廃止するべきである。
あくまで、権利の制限は法に基づいて、他者の権利との折衝の必要性に限り認めるべきである。

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