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私はどんな人?≒

今回のテーマは、「私ってどんな人?」という問いについて。
こう聞かれた時、つい自分のことばかりを掘り下げたくなるが、見方を変えて、私を取り巻く人間はどんな人たちなのかを見つめ直そう。


自分に自信がなくなったときー

自分に自信が持てなくなったことはないだろうか。
そして、他の誰かの存在や人生を妬んだことはないだろうか。

つい最近、私は自分への自信を失って自暴自棄になりかけていた。
自分はなんてちっぽけな人間なんだろうと悲観に暮れて脳死状態でSNSをひらけば、そこにはトモダチの匂わせ投稿が流れてくる。このままじゃどんどん腐って下の方へと流れていってしまうと危惧する反面、もはや焦る気力さえほとんど残されていない状態だった。でも今はほぼすっかり立ち直った。
当時の空気抜け人形のような自分が徐々に自信を取り戻していくきっかけとなったのは、母が、私の友達がどんな人かという問いを投げかけたことだった。
自分にとっての「本当の友達」の顔を思い浮かべることは、自分が一体どんな人なのかを見つめ直すことに繋がるのだ。

ここからは、今私が思い返せば「その時限りの友達だったんだなー」って笑い飛ばせる程度のトモダチにまつわる記憶と、そこから現在に至るまでの話。

明らかに一軍だった中3時代(どや)

中学3年生の時、常に行動を共にするくらい仲良くしていた友達が3人いた。新しいクラスが発表された始業式の日から、気づいたら私たち4人で固まっていた。私たちはクラスや学年の中でも存在感の大きなグループだったと思う。
つまり、その3人と仲良く過ごした時期は言うなれば、「『一軍』としての1年間」だった。
休み時間に教室で大きい声で話して息ができなくなるまで笑って騒いだり、時には先生にちょっと反抗的な態度をとってみたり、クラスのムードメーカ的な存在の男子ともちょっと仲良くしてみたり。賑やかでキラキラした生活は楽しいものだったかもしれないけれど、私にはやっぱりどこかに後ろめたさがあった。後ろめたさとは少し違うが、彼女達と一緒にいるとき肩に力が入ってしまっている自分を感じてしまったのは、テストで自分だけちょっといい点を取って若干ハブられてた時期。今でも思い出してクヨクヨしてしまうくらい、ニガ〜い思い出。
一軍っていうポジションを人生で一度経験できたって思えば、悪くなかったかも。でも、その時の自分は何か、ヒエラルキーの意識に支配されていたとやっぱり思う。

ほろ苦いのも含めて青春。ってことで慌てて記憶に蓋をして卒業。

彼女ら3人のうち1人は同じ高校へ進み、2人は別の高校に進んだ。
中学卒業前に撮ったプリクラには一生忘れないとか一生友達とかそんなことを書いたかな。
高校に入ってからは、ゆっくりマイペースでいたい自分の姿を取り戻せた気がする。根が真面目で勉強もできて、個性豊かで愉快な仲間たちと、髪染めやピアスも生徒のやりたいようにやっていい、そんな自由で平和な校風の高校で、私は自分の居場所も見つけて3年間健やかに過ごした。気の置けない仲間もできた。彼らとは、テスト期間最終日に最後のテストが終わった昼下がりから夜まで近くのファミレスに居座り解放感に浸っていた。それがたまらなく楽しかった。
次第に、中学時代の彼女たちと会うことは少なくなった。
私たちはそれぞれ別の高校で頑張っていた時期というのは、自分を取り巻くそれぞれの文化や環境に馴染み、価値観そして自己を形成していく真っ最中の頃だったのだ。

一生忘れねえ。ショックを受けた再会の日。

大学に入って2年目を迎え、久々に彼女らと晩御飯を食べに行くことになった。
その日は渋谷で夜6時に集合して、向かった場所は居酒屋だった。
「居酒屋どこ行くー?」っていう話題になった時、正直モヤモヤした。なんで成人して間もないあんたたちがおすすめの居酒屋とかよく知ってるの?って。
これって、私が純粋すぎるだけなのだろうか。19歳までお酒を飲まずにいた私は、居酒屋もなんも知らなくて、これってつまり、人生経験の乏しいつまらない人間に値するのだろうかって。この時中3の私が目を覚ました。

ハチ公前で集合してから居酒屋に行くまでの道玄坂で、お目当ての居酒屋を目指す3人の肩が私の肩の前に並ぶ。混んでいる廊下を4人で歩いていた時に私が率先して1人後ろに回っていたあの時を思い出した。私もその隣に一列になって歩きたいけど、小雨で傘をさしているから邪魔になって、そのもうあと半歩が踏み出せない。その時あたりから、彼女たちとはもういろいろなものが合わなくなっているような気がした。
居酒屋に入った。
「かんぱーい」っていう声に(やっとこの4人で乾杯できるね)っていうウキウキの気持ちが乗っかる。その温もりにほっとするのも束の間。この子達にとってこのお酒が初めてでないことがわかった。彼女たちはお酒が回って饒舌になっていく。その緩んだ口元からこぼれる話を聞けば聞くほど、「彼女たちをもはや別の世界の人と思う感覚」は確信のようなものに変わっていった。確信の"ようなもの"と言ったが、確信に変わりきらない原因は自分の中にあった。中学の最後の1年間を共に駆け抜けた私たちが、高校生活3年間を少し離れた場所で送っただけで、こんなにも違っていくことへのショックを受け止める度量がまだなかったのだ。

私ってなんだったんだろうと思いながら歩いた雨の夜の帰り道

時刻は夜9時ごろ。私は一軒目でとっとと抜けて帰ってきた。リビングの椅子にどかっと腰掛ける。図書館で勉強して帰りが遅くなったと伝えていた母からは「味噌汁とサラダくらいならあるけど食べる?」と聞かれた。安っぽいサワーとしょっぱすぎて何を食ったかも覚えてないくらいのおつまみで腹はパンパンだったけど心が満たされていなくて食べた気がしてなかったから、お味噌汁だけ温め直してもらって飲んだ。
すっごく安心した。
と同時に、往復2時間もかけて会った友達と居酒屋でダラダラ過ごした生産性のない時間がひたすら恥ずかしくてたまらなかった。結局その晩の出来ごとは親に黙っておいた。
翌朝、私以外の3人がその後数軒ハシゴした挙句行き着いたカラオケで夜を明かしたことをインスタグラムのストーリーで知った。あとから聞いた話だと男の子3人組と合流したらしい。「ふーん、私がいなくてちょうどよかったじゃないか。」で終わればよかったけど、
ああ、もうあの子たちは自分がいなくても楽しくやっていけちゃうんだな。って思った。幼稚な焦りなのは分かっていたけど悔しくてたまらなかった。中学で青春を駆け抜けた3人は、3人で呆気なく私のところから離れていった。
彼女たちのことなんて忘れりゃいいのに、共に過ごした長い長い時間がそれを許さない。彼女らの存在は1年間ほど私の脳内にこびり付いた。

最低な自分を親に曝け出した

このこと苦い経験をようやく親に言い出せたタイミングがある。
留学の志望理由書を書いているときだ。
留学の選考フローでは、まず学内選考に申し込む時、そして学内選考に受かった後現地の大学に志願を出すときの少なくとも2回、志望理由書を書かされるタイミングがある。志望動機を書く時間は、自分の人生つまり自分の過去、現在、未来を見つめ直す時間に等しい。
自分はどんな風に生きてきて、その過去があるおかげで今どんな人間であって、将来はどうなっていくのか。そう考えているときに私の頭から不思議なほど離れなかったのが、彼女たちの存在だった。
私は、留学先の大学で挑戦して学びたいと思っている内容が、日本の大学では選考したことのない分野だった。だから、熱意を伝えることはできても、それに伴う客観的な経験や実績がなかった。なにも書くことが無くて、自分の強みなんてないんじゃないかって一度思い込むとその悲観的な考えから抜け出すことができなくて、クヨクヨして自分を責めて、気づいたら「見た目がとびきり可愛くて、性格もとびきり明るくて、勉強は苦手だけど周りに助けられて世渡り上手な彼女たち」を思い出して勝手に怒りが込み上げていた。彼女たちから聞こえないはずの嘲笑が聞こえるくらい私の被害妄想は膨らみに膨らんでしまっていた。男からかわいいと思われるような見た目と明るい性格を持ち合わせていた彼女たちにも「綺麗な容姿を保つ」とか「異性とのコミュニケーションを楽しむ」とか、「自信を持っていられる自分でいる」とか、彼女たちなりの努力というものを積んできた経験はあるのだろうけど、その時の歪み切って衰弱し切った私の心は、彼女らをズルいとしか思えなくて、正直悔しかった。
「結局"うまくいく"人たちって、いわゆる天性の陽キャみたいな彼女らような人のことを言うのかな」って思えてきて、何事も地道で不器用な自分からしたら悔しくてたまらなかった。そして、なんの強みもない自分への怒りの矛先を、自身にとって都合の悪い人たちへ向けてしまっている自分の器の小ささを実感し、ますます恥じて嫌いになった。
母に打ち明けて、あの日お酒を呑み交わして感じたショックがこんなにおっきなものだったと分かり、自分でもびっくりした。

「あんたの友達はどんな人?」という母からの問いかけ

ひとまずその日にあったこと、自分が感じたことを洗いざらい話し終えたところで母からこんな言葉が。
「へー。でも、あんた今お友達いないわけじゃないでしょ?例えばお友達に誰がいるの?中学の頃からずっと一緒にいる子とか、高校大学で仲良くなった子の話、よくしてくれるじゃない。その子達はどんな子なの?」
そう言われて、自分が今も昔も心の底から気を許して仲良くしてきた友達の顔を思い浮かべてみた。

今私の周りにいる、本当の友達は、
お酒を飲まなくたって元からちょっぴりクレイジー。
成人するまでお酒を飲まなかった人。
人のことを敬える人。
辛い時に愚痴はこぼすけど、誰かの悪口は言わなくて、絶対に一線を超えない人。
根が真面目で、勉強を真面目にコツコツやってきた人。
学校のクラスでは『一軍』的ポジションでは決してなかったけどそんなヒエラルキー意識なんかにとらわれず自分に自信を持って精一杯楽しんでた人。
誠実で、曲がったことが大嫌いな人。
周りをよく見ながら行動ができる人。
人のことを、地位ではなく、中身で判断できる人。

なんて素敵な人たちだろう。
心が綺麗な人たちばかりが、私が長く付き合ってきた人たちなんだ。

それから、疎遠になってしまった人たちは、それまでの付き合いだったのだと思うことにした。いや、そう思えるようになった。
今は自分の幸せの尺度で頑張るのみだ。
彼女たちを「見返そう」なんて思わない。
彼女たちの幸せの尺度に、私のそれが合うわけがない。それがわかった今、自分が掴んだ幸せを彼女に見せつけようとしたって何の意味もない、という潔い気持ちになれた。

るいとも、そして、ないものねだり

類は友を呼ぶ、という諺がある。
この諺が言っていることはたしかに正しい。
私たちは自分と似た感覚や考え方の人と一緒にいる時に居心地がいいと感じ、そうすれば自然とその人たちと過ごす時間は長くなり、関係を深めてゆくからだ。
類は友を呼ぶならば、友は自分を映す鏡だとも言える。
自分の友の人となりを見れば、大体の自分もわかる。
誠実な友を沢山引き寄せることのできる自分は、少なくとも不誠実な人間ではないだろう。
自分の側にいてくれる友とは、結局自分と同じような価値観を持ち、行動規範を分かち合う人たちなのである。

自分がどんな存在なのかは、他者の存在で決まる。
自分に自信が持てなくなった時、いつも自分に元気を与えてくれるすてきな仲間たちが周りにいることをこれからも思い出そうと思う。

そして、隣の芝生は青いとか、ないものねだり、なんかも耳にする。
彼女たちの人生を妬んでいた自分はまさにこの状況だったと言えるだろう。
私はどんなに隣の芝生が青く見えても、「自分もああなりたかった」で終わらなかった。
大事なのは、自分が持っている庭の芝生も見渡してみること、そして、自分が持っているものを大切にすることだから。

私は今回、自分が本当に「友達」と言える人たちについて、母の質問をきっかけに見直すことができた。素晴らしい人柄の持ち主たちが自分の友達であること、そして自分がこの素晴らしき人たちの友達でいることを、心から誇りに思うし、この素晴らしき友に変わらず愛してもらえるよう自分を磨き続けたい。


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