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自分で自分の主体性を奪っていないか?それに気付けるのは自分だけ

今朝Twitterを見ていて、ハっとした為末大さんのツイート。

為末さんは人と人との話(恐らく組織や集団の中での話)をしていらっしゃいますけど、私がハっとしたのは、

これ、自分が自分にやってたやん!

っていう気付きでした。ハっとしたなぁ~。


例えば、

これやってみたいなぁ!
(いや、これは無理やろ。時間ないし。今は辞めとき)

これ好き!欲しいな!
(いや、それは無理やろ。お金ないし。我慢せぇ)

これ素敵だな~!いいね!
(素敵って思うのは私だけ?この感覚合ってる?他の人はどう思ってる?)


あるあるですよねぇ・・・。
あとは、私がめちゃくちゃ頷いたのは

これね!親と子のやり取りに限らず、自分自身の中でもあるある。
特に、健康に気を遣う人や栄養を学んでいる人には顕著では?
砂糖が毒だ、小麦は摂ったらアカン、おまけに糖質も減らせ、みたいな…。

私自身も自分が自分に厳しすぎるせいで、お菓子が辞められない止まらない時期がありまして。
本当はこんなの食べちゃダメなのにって禁じているせいで、ますます欲しくなるという負の連鎖でしんどかった。

(今は自然と無くなって、添加物とか色々なことも分かった上で、よく噛んで楽しんで適量食べてOK!っていう在り方にシフト)


こういう主体性が奪われる状態って、

  • 自分の内側から湧き上がる提案 → 感情や感覚(女性性)

  • 採用しない、受け取らない、否定する → 感覚や感情を抑え付ける思考(狂暴化した男性性)

ということが起きてる。そして、その結果として

自分なんて・・・という無力感

が大きく育っていく。
特に、そういう家庭環境や学校で育った人は辛いはずだよね。骨身に染み付いちゃって。

自分への自信の無さや無力感、劣等感みたいな自分の在り方の揺らぎって、原因じゃなくて結果として起こっているもの。



本来のバランスは、内側から湧き上がる提案をいったんは引き受けて→どうするかを決める、というのが女性性と男性性の両方を尊重する在り方。
どっちも大事。どっちも欠かせない。

だけどアンバランスな状態が長く自分の内に出ていれば、外に現象として出るのも納得な話だし、為末さんの言うように「主体性が奪われる」というのもその通りだなぁと思う。


以前、どなたかのブログ(お名前忘れてしまった…スミマセン)で

「一日の中で、どれだけ自分が嘘をついたか数えてごらん。ぞっとするから」

とおっしゃっていたことがあって、まさにこれなんですよ。

嘘というか、自分を自分自身で有無を言わさず潰す。
そして潰すのは往々にして自分の狂暴化した思考なので、思考自体を嫌がってしまう方向に行くことが多い。


そんな日々のちょっとしたアンバランスが積もりに積もっていくことで、

  • 自分の気持ちが分からない

  • 自分の身体の感覚が分からない

  • 何が好きか、何がしたいか分からない

  • 自分がどうしたいのか決められない

  • 他人の目ばっかり気になって自分がよく分からない

みたいな、漠然としていて且つ人生の中で最も大事な部分が霧がかってしまう悩み(もしくは、不調や病気、人間関係の不調和等)に発展していくわけです。

私もこれを身をもって体験したから、めっちゃ分かるなぁ…。


で、こうなると

  • 己の感覚感情(女性性)だけが一番大事だ!という女性性の偏重

  • 思考(男性性)はいったん黙れ!という男性性殺し

に極端な方向に行きがちですが、

どっちも大事なんです、どっちも尊重なのです

これね、言うは易き。行うは難し。(笑)


日々の小さなことから感覚や感情を十分に尊重してあげる、というのと同じぐらい、
それに対して湧いてきた思考に対しても同じように尊重するのも忘れちゃいけない。

上にも書いたように、思考は時に狂暴化していて、否定したり採用しなかったりするんだけど、それもそれでダメだと裁かなくていいんだよ。

そういう思考になったのにも、自分が今まで生きてくるまでに培った戦略でもある。
だから、狂暴化した思考を責めずに「そういう思考癖が付いたんだな」と気付くだけでもいい。

そうやって見た上で、

感覚や感情を尊重する思考の使い方を身に着ける

ここに行く。ここを練習する。(私も練習中)


それが、バランスを取るということ。
自分で自分の主体性を尊重してあげる在り方を整える、ということなんじゃないかな。

ここに気付き、観察し、自分にとって生きやすい方向へ持って行くことができるのは自分だけですね✨





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