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【短編小説】三面相の男【ショートショート】



 狭い路地裏に、ゾンビのように蠢く人影がひとつ。


 暗闇の中で、黒川航太はふらふらと彷徨していた。目を擦って確認すると、腕時計は深夜の2時10分を指している。


 ぼんやりとしていた視界が徐々に明瞭さを帯びていき、ゆっくりと自意識が戻ってきた。


 ここは何処だろう。


 航太は道の両脇に点在する住宅を虚ろな目で眺めた。知らない道だ。少なくともいつもの見慣れた大学から駅までの通路ではない。何故俺は知らない道を歩いているんだろうと自問する。
 まだ頭の中がモヤモヤと曇っている。おぼつかない足取りで歩を進めた。どこに向かえばいいのかはわからないが、適当に歩いていれば知っている道に出るだろうと思った。


 そうして10分ほど入り組んだ路地裏を歩いたが、依然として眼前の光景は変わり映えがしない。完全に見知らぬ住宅街に迷い込んでしまったようだ。
 酷い頭痛がした。航太は焦燥を感じ始めていた。とりあえずどこか開けた場所に、大通りのような場所へ出なければならない。


 そう思いながら闇雲に足を動かしていると、突然向かい側から自転車のライトと思わしき光が差し込んできた。目が眩む。こんな深夜に誰だろう。暗さで相手の顔がよく見えない。

 その自転車は航太の横を素通りしていくのかと思いきや、彼の正面に向かって一時停止した。

 誰だ?目を細め、顔を認識しようとする。仮に不審者だったら手に負えない。咄嗟に逃げ出そうにも足がふらついて走れそうにない。


 航太は微かな動悸を感じながら必死で目を凝らした。


 その瞬間、正面から「お兄さん、どうしたの?」という男の声が聞こえた。


 自転車に乗っていたのは男の警官だった。40~50代ぐらいだろうか。制帽を被っているが、薄ら禿げているのがわかった。瓶底眼鏡をかけており、何故かニヤニヤしながらこちらを見ている。


 そういえば『こち亀』にこんなキャラクターいたなぁ、寺井だったか寺田だったか忘れたけど。と思うと同時に、これまでの記憶が濁流のようにフラッシュバックしてきた。


 思い出した。



 航太はその日、高校時代からの腐れ縁である晴斗と久しぶりに飲もうということになり、池袋の居酒屋で酒を飲んでいたのだ。
 内部進学のため晴斗とは大学も一緒だったが、学部やサークルも違うこともあり、しばらく連絡を取っていなかった。

 しかし夏休み期間中ということもあり、たまたま予定が合ったので急遽池袋で落ち合うことになった。



 晴斗は大学生になっても相変わらず無鉄砲で馬鹿で、デリカシーがなかった。2年生になった今も、テニスサークルの新歓コンパで新入生の靴を隠したり、女子の前で品性のない下ネタを言ったりと、まるで中学生のような悪戯を働いているらしかった。


 高校の陸上部で一緒になった時はかなり嫌なことばっかり言う奴だなという印象だったが、変に気を遣わなくて良い分、航太にはその関係性がちょうど良かった。なんやかんやで腐れ縁のようになって今に至る。



 晴斗は飲みながら航太の所属している軽音サークルの異性交遊事情がどんな感じか聞いてきたり、最近行ったソープランドの感想を懇切丁寧に教えてきたりした。




 男同士で酒を飲むと、大体異性の話になる。航太は正直うんざりしていた。知っている異性の話ならまだ我慢出来るが、知らない異性の話をされたり、写真を見せられたりしても反応に困る。


 サークルの男連中で飲む時も、うちのサークルには可愛い子がいないという愚痴を垂れたり、ゼミの合宿中に撮った集合写真を見せてどの子が一番可愛いかを決める品評会が開催されたりと、かなり下劣な会話が展開される。


 生身の人間なんだからそんな品評会みたいなことはしたくないというのが航太の本心だったが、人間に対して使うには適切でない「品評会」というワードが脳裏に浮かんでしまう時点で、自分もその低俗な雰囲気に染まったうちの一人であるのかもしれない、とも思った。



 それでもやっぱり実際に相対して交流を持ったことのない異性に関して四の五の言うのは意味のない時間だと思う。
 顔やスタイルなどの表層的な部分だけを見るのはお門違いだ。もちろんそれらの要素を無視することは出来ないが、性格や価値観などを全てを総括的に見て判断しなければならないというのが航太の考え方だった。



 しかしそんなことをいちいち言っても面倒臭い奴だと思われるだけなので、仕方なく航太は晴斗の低俗な話に適当に相槌を打っていた。
 
 だんだんと酔いが回り始めてきていた。 





 途中、航太がトイレに行って席へ戻ってくると、テーブルの上にテキーラのショットと焼酎のグラスが無造作に置かれていた。


「おい、頼み過ぎだぞ」

「お前の分も注文しといてやったんだよ、早く飲めよ」

「嫌だ、お前が頼んだんだからお前が飲め」

「じゃあ2人で飲もう、同時にクイッとやってさ」



 航太は中途半端に自分が酒に強いという自負があったので、何のこれしきという態度を装いながら大量のアルコールを摂取した。


 普段飲み歩いている酒好きの晴斗に負けたくないという対抗心もあった。





 結果、明らかに飲み過ぎてしまった。そこからの記憶が完全に飛んでいる。


 そうして気付けば何処かもわからない道にいて、ただ今人生初の職質を受けているという訳だ。


 「お兄さん、こんな時間に何してんの?カバンの中見せてよ」


 『こち亀』の寺井似の警官がニヤニヤしながら聞いてくる。
 絡み方が警官ではなくチンピラのそれだ。こいつは本当に警官なのか?警官の格好をした反社会的組織の人間だったらどうしよう。いや、そんなわけないか。だとしたらかなり精巧なコスプレだ。
 今まで遭遇したことのない展開に、頭がパニック状態になりかける。


 「いや、あ、あの……」


 ダメだ。上手く呂律が回らない。航太は本格的に焦り始めた。このままだと本当に不審者扱いされかねない。


 「何?なんか凄い怖がってるけど。とりあえずさ、そのバッグの中身見せてよ」


 自分が身につけているのはバッグじゃなくウエストポーチだ、という見当違いのことを言いそうになったが踏みとどまった。
 幸い、ウエストポーチの中にはモバイルバッテリーと家の鍵、あと文庫本が入っているだけだ。大人しく渡して自分の身の潔白を証明すれば解放される。
 航太はウエストポーチを警官に手渡した。


 「中、開けさせてもらうね」


 警官がひとつずつ中身を点検する。モバイルバッテリー、キーケース、文庫本……警官は文庫本の表紙を一瞥すると、しばらく身動きを停止した。


 航太がポーチの中に入れていたのは安部公房の『他人の顔』だった。晴斗と待ち合わせる前に、時間があったので池袋の本屋で買ってきたものだ。


 「本好きなの?」


 警官が言った。航太はその口調から、なんとなくこの警官は日常的に本、とりわけ小説のようなジャンルを読まないんだろうなということが直感的にわかった。


 「はい、まあ……」

 「ふーん」


 警官はウエストポーチから取り出したものを中に戻すと、航太の手にそれを返却した。
 もし警官が安部公房のことを少なからず知っていたら、無駄に深読みをされてこんなにスムーズに荷物検査が終わらなかったかもしれないな、と少し安堵した。



 「君、今までどこで何やってたの?」

 「えっと、池袋で飲んでて、飲み過ぎちゃって……そっから覚えてないんですけど」

 「え、池袋?ここ新宿だよ?」

 「え?」

 「どうした?もしかして歩いてここまで来た?」



 話を聞くと、どうやら航太が路頭に迷っていた場所は新宿の路地裏らしかった。自分でも気付かない内に、池袋から徒歩で新宿まで来てしまったようだ。
 新宿というと眠らない街、歌舞伎町のイメージが強かったから、こんな人気のない静かな路地裏があるんだと少し驚いた。


 「駄目だよ、ちゃんと帰んないと。気をつけてね。じゃ」


 そう言って立ち去ろうとする警官を思わず呼び止めた。


 「あ、あのすいません!」

 「ん?」

 「どこか安全な場所ありますか?」

 「は?」



 航太は純粋に恐怖を感じていた。夜の暗がりの中で一人取り残されてしまうこと、自分が人生で初めて酒を飲み過ぎて記憶を無くしてしまったこと、初めて警察官に職務質問されたこと、わりと真面目に堅実に生きてきたのにうっかり道を踏み外してしまったこと……。


 どうしてこんなことになったんだ?そういえばなんでこの警官は最初ニヤニヤしながら俺のことを問い詰めてきたんだ?


 ……ああ、そうか。多分この警官は、夜のパトロールを担当していて、こういう酩酊した若者に慣れているんだ。余裕綽々としていないと若者に舐められてしまうから、あの態度だったんだろう。

 安部公房の『他人の顔』を発見してから、警官の態度が微妙に変化したのを航太は感じていた。それまでは人を小馬鹿にしたようなニヤニヤしていた表情が、若干不思議なものを見るような表情に変わった。

 それを感じ取った航太は、「普段はこんなことしないんです、今日はたまたま飲み過ぎてしまっただけで……深夜に一人で歩くのも初めてで……誤解しないでください、僕はそういう人間じゃないんです」と弁明したくなったが、それもそれでなんだか必死すぎるようで格好が付かないなと思ってやめた。



 しかしやはり深夜の時間帯に見知らぬ場所に一人取り残されるというのは怖いもので、つい思わず「どこか安全な場所ありますか?」という言葉が口をついて出てしまった。


 警官は世間知らずの子どもを見るような目で「安全な場所って……日本だし基本どこも安全だけど、始発まで行くあてないならカラオケとか行っとけば?」と言った。


 さっきまではあんなにしつこく尋問してきた癖に、途端にどうでもよくなったように答える警官に若干の苛立ちを覚えたが、悪いのは酒を飲み過ぎた自分なのだからしょうがない。




 警官はここしばらく歩いて右曲がると大通り出るから、と駅までの道を伝えて去って行った。


 航太は再び激しく襲ってきた頭痛に耐えながら駅前まで歩き、目についた24時間営業のカラオケ店に入った。

 
 長い夜だった。





 結局朝まで眠れなかったので、カラオケの個室で適当な曲を歌いながら夜を明かした。



 始発の時間になり、店を出て駅まで歩いて山手線に乗ると、携帯に晴斗から「昨日は悪い、ちゃんと帰れたか?」とメッセージが入っていた。


 詳細を話すのはまた今度会ったときにしようと思い、「なんとか。そっちは?」と返すと、「がっつり寝たわ~、今カップ焼きそば食ってる」と要らない情報を添えた返事が来た。

 「知らねえよ」と文字を打ち込もうとするとその前に、晴斗が追加で送ってきたメッセージが表示された。


「にしてもお前めっちゃ酔ってたけど大丈夫?最後の方道端の空き缶蹴飛ばして人に当ててたの笑ったんだけど」



 一瞬思考が止まった。徐々に変な汗が出てくる。全く記憶がない。







 メッセージで詳しく話を聞くと、航太はあの後晴斗と一緒に店を出て、晴斗と同じサークルのひとつ年下の女子と池袋の別の店で合流したらしい。名を夕愛ちゃんと言って、容姿端麗な子だったようだ。



「本当に俺がその子とお前と3人で別の居酒屋に行ったのか?マジで全然覚えてないしその子の存在も今知ったんだけど」

「やばすぎだろ、酔ってんなーとは思ってたけどそこまでだったのかよ」



 俺が帰って晴斗の別の友人とその子で飲んだんじゃないのか?それは本当に俺なのか?俺は本当に道端の空き缶を蹴飛ばして通行人に当ててしまったのか?




 再三確認する航太に流石の晴斗も少し辟易していたようだが、全部本当のことらしかった。



 「お前酔うとあんなことになるんだな、全然違う一面が見れて面白かったよ」



 笑えない話だ。 


 それから航太はしばらく酒を飲むのをやめた。









 大学を卒業してから2年後、晴斗から夕愛ちゃんと結婚するという連絡が来た。 


 周囲の友人などからは「あの晴斗がよく結婚出来たな」という声や「よくあんなに性格の良い美人な子が晴斗と結婚してくれたな、人は見かけによらないもんだ」という声が上がっていた。


 実際に夕愛ちゃんは航太が酔い潰れてしまったあの夜も何かと世話を焼いてくれたらしく、甲斐甲斐しくペットボトルの水をコンビニで買ってくれたり、背中をさすってくれたりしていたらしい。
 良い子であることは間違いなかった。



 晴斗は大手の商社で働き、夕愛ちゃんは化粧品関係の企業に内定を得ていた。誰の目に見ても勝ち組の人生だった。



 それとは対照的に航太は就職活動に苦戦してしまったので就職浪人をし、スーパーのレジ打ちのバイトをしながら予備校に通って公務員試験の勉強をしていた。




 一人暮らしの寂れたアパートでハイボール缶を飲みながら結婚報告が表示された携帯の画面を眺める。



 大学在学中はあれから一切酒を飲まなかったが、卒業後は同期の中で自分だけまだ就職していないということに焦りを感じ、そのストレスを掻き消すために航太はまた酒を飲むようになっていた。




 晴斗から送られてきた結婚式のオンライン招待状のリンクを開く。晴斗と夕愛ちゃんの屈託のない笑顔の写真が表示された。




 航太はため息をついた。口を大きく開けた顔を天井に向けて、右手で缶を振りながら余ったハイボールの滴を無理矢理喉に流し込む。


 完全に空になったことを確認すると航太は缶を床に置いた。


 それを足で軽く蹴飛ばしてみる。



 カラン、という小さい音が鳴り響き、やがて虚空に消えた。

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