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救済のためのロープ

 ここ最近の倦怠感は一体何なのだろう。いつものようにくだらないことを考える気力が全く沸いてこないので、前回と同じく屈託に満ちた文章しか書けない。最初に断っておくとあまり陰鬱な気分になりたくない方は読まれない方が良いです。自己を救済したいのか他者を救済したいのか自分でもよくわかっていないけれど、とにかく何らかの形で救済が出来れば良いと思って書いてるものなので、副作用強めの薬みたいな様相を呈してしまうかもしれないから。ごめんなさい。



 明らかに心身の不調を抱えている。

 言いようのない閉塞感が全身を包んでいて、とても息苦しい。

 何をやっても全く上手くいかなくて、その負の集積を体感していくと共に今まで自分の人生において何かが上手くいったことなど一度でもあっただろうかという諦念に似た何かが渦巻いていく。

 もう限界だ。生きるのに疲れた。心の中で唱え尽くしたこのフレーズを自分の中から無理矢理追い払おうとするも、やっぱりどうしたって俺の脳はオートマティックに生から逃避したいという欲求を引き寄せてしまう。

 たとえば、あくまでたとえばの話だ、生きづらさを抱えた人の中には「自分がこの世からいなくなったとして、それで一体世界に何の影響があるのだろう?」と疑問を抱く人間が少なからずいる。
 世界に影響はなくとも近しい関係性の人間が悲しむ?それは無条件に生というものを肯定しているという前提があるからで、この世に生きる価値があると思える人間だからこそ抱ける悲しみで、その悲しみの対象がこの世に生きる価値を感じられなかった人間に向けられているという残酷な現実が、ひどくやるせなく思えてくる。

 この世に生きる価値を感じられないのは、未来に希望がないからだ。過去の負の体験が絶望を形成していって、どうせこの先何をやっても人生が好転しないだろうという諦観が募っていく。

 ふと書いていて思ったが、俺は自分の心情を綴る時に「諦」という字を多用するきらいがある。これまでの人生の中で、諦めるしかない、諦めた方が楽だ、と思うことが多かった。幼い頃から自分の意志を無視されてコントロールされるように育てられてきたという生育環境が多少なりとも影響しているのだろう。
 そんなもの気の持ちようで何とかなるだろうと思われるかもしれないが、こういうバックグラウンドを持った人間の自信の低下具合は想像を絶するのだ。
 こういう自身の生育環境を、言い訳にしたりだとか、生きづらさを正当化するための隠れ蓑にしたりだとかするつもりはないけれど、やっぱり人生を総括的に考えるときに避けては通れない遺恨みたいなものとして深く精神に刻み込まれているからどうしても無視は出来ない。

 問題なのは、この遺恨をどう処理するかということ。こういう軟弱さというハンディキャップを持ってして生まれてきてしまった人間が、未来に希望を見出すためにはどうすればいいのか。

 明確な答えは出てないし今後もきっと出せないんだろうけど、今の時点で考えたものとしては、管理されることへの抵抗としての「自由な自己表現活動」。

 何をやっても上手くいかないという非力感は、全能感と対極にあるものだ。この全能感を感じる瞬間というのは「自由な自己表現活動」をしている時だと思う。具体的には文章を書いたり、物語の創作をしたりといった瞬間。それが間接的に管理という抑圧から自己を開放することに繋がり、生きづらさの根幹にある諦念を破壊していく。きっとそういうことなんだと思う。

 散々厭世的な価値観を曝け出してきたが、なんだかんだ結局俺はこの世は生きる価値があるものだと捉え直したいのだろう。その薄明で、でも確固とした欲求だけが、崖の縁にいて今にも奈落の底に落ちそうな人間を救済するために垂らされた1本のロープのように、ひとつの不確かな魂をこの世に繋ぎ止めている。

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