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『非リア王』

 愚にもつかない記事ばかりのこのnoteにしては珍しく今回は読んだ本の書評めいたもの、というか読書感想文みたいなものを記そうと思う。そもそもnoteを始めたきっかけが読書感想文を主に投稿したかったからなんだけど、気付いたら1回も読書感想文を書かないまま2年ぐらい経過していた。人間はかくも弱い生き物である。

 今回不運にも感性が乏しい私の書評の対象になるのはカレー沢薫氏が著した『非リア王』というエッセイである。


 カレー沢薫氏は日本の漫画家・コラムニストであり、自称無職兼作家を標榜しておられる方なのだが、とにかく性格や思考がネガティブ寄りであり、エッセイを読んでみてもとても共感できる部分が多い。


 会社員として働いていた時代に周囲の人間とほぼ口をきかなかったり、四六時中Twitterに張り付いたり、傍から見たら空虚にしか見えない人生を肯定したり、思わず「汝は我、我は汝……」と唱えだしてしまいそうなほどに私と性質が一致している。

 ただ、私のnoteも自虐風なテイストは同じであるにしろ、カレー沢氏の自虐、人生が充実している人間への怨嗟、それらを面白おかしくユーモアに富んだ言葉で表現する力は比べ物にならないぐらい圧巻である。ここら辺はもう実際に読んでくださいとしか言いようがない(読書感想文のアンチテーゼ)。

 そんな中、今回特に印象に残った部分は「陰キャ」という言葉に対しての考え方が述べられているところだ。この本のタイトルにもなっている「非リア充」という言葉は、『非リア王』の初版出版年が2019年であることを鑑みるともう既に古い言葉と化してしまっており、それに代わる言葉として「陰キャ」という言葉が台頭してきていた。

 カレー沢氏はこの「陰キャ」という言葉を、「非リア充」という言葉に比べて極めて直接的な言葉として捉えている。「非リア充」はリアルが充実していないという、あくまで側面的な事象についてまでしか言及していないものであるが、「陰キャ」はその人間の内面性、性格まではっきりと断定してしまっている。攻撃性が高い。「陰キャ」に比べたらまだ「非リア充」の方が優しさがある、というのだ。これを読んだ時、私はタケモトピアノばりの「その通~り!」を口から繰り出してしまった。

 私自身、実際にその「陰キャ」というものに該当するので完全に負け惜しみ感溢れる主張になってしまうのだが、「陰キャ」という言葉を初めて耳にした瞬間からこの言葉には苦手意識があった。確かにカレー沢氏の書いているように内面性を勝手に決めつけられたような感じがして非常に癪だったのだ。人間の気質を決めるのは他人ではなく自分自身である。
 陰気そうに見えても頭の中では酒池肉林パーティーの妄想に余念がないという人間もいれば、陽気そうに見えても実は常に希死念慮と戦っている人間もいる(のかもしれない)。人の性格は「陰キャ」「陽キャ」という言葉では一概に言い表すことは出来ない。
 では、自らのことを「陰キャ」と卑下するのならどうか。これも個人的にはいただけない。何故なら「陰キャ」「陽キャ」という言葉で自分をカテゴライズするのは思考放棄に近いものを感じるからだ。
 自分で自分のことを「陰キャ」というのは、自分に対して予防線を張っているという意味でも、キャラクター性の判断を相手に委ねてしまっているという意味でも甘えである。本当に成熟した人間は安易に「陰キャ」「陽キャ」という言葉に依存しない。キャラクターというものは十人十色であり、単純に二極化出来ないということを知っているはずなのだ。故に「陰キャ」「陽キャ」というワードを多用する人間の思索は極めて浅薄であると言わざるを得ない。そういった思考能力が欠如した人間が軽々しく「陰キャ」などの言葉を使用することにより傷付く繊細な人間がいることを忘れてはいけない。

 さて、ここまで己の所感を達観した視点で書いてきたが、ここで今一度私の直前のnote記事を読み返してみてほしい。
 そう、お気付きだろうか……本当に思索が浅いのは誰なのか?思考能力が欠如しペラペラな文章しか紡ぎだせない本当に愚かな人間は誰なのか?持論を偉そうに主張出来る立場ではないのにそれっぽいことを書いて体裁を保とうとしている卑劣な陰気野郎は誰なのか……その正体に気付いた時、きっと貴方は戦慄するであろう……そしてこう叫ぶのだ、「陰キャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!


お後がよろしくないようで……チャンチャン♪


おわり

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