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なんとなく世界を知ることから

プログラミングを学ぶ時、色んなスタートの切り方があるよね。
僕はゲームやコミュニケーションだった、って話のつもり。

陰キャを心配する家族が

僕は今でこそゲームはしないけど、昔はよくゲームしてて家族から心配されてたよ。
うちの家族は時代遅れというか、伝統的価値観が強いところがあったからね。

僕はパソコン好きでよく遊んでたよ。
特に細かいこと色々できるってわけじゃなかったけど、完成形とその工程のイメージがあるから、少し話を聞けば一般レベルの理解度に到達するのはそう難しいことじゃなかった。

一方、家族は僕と真逆。体を動かしてナンボ。でも、結局、その家族がPCワーカーの道を進むことになるんだよね。

時代に取り残された家族の対応してたら、僕が取り残されてしまったよ。
そんな家族は、僕に対してなんとも思ってないみたいだけどね。周りは僕の立場を理解してくれてたけど…。

自分のことは自分で

今は僕がひとりで挽回に向かってるよ。
まぁ多少は家族の協力得てるけどね。僕が失ったもの、いなくなった人のこと考えたら、今さらなんだけどね。「あれだけ命かけて言ってたのに」って思うけど。

客観的に見たら僕が足手まといに見えるんだけど、反論はしない。わかる人は言わないから。わかる人は、言い方が違うから。

素直に最初からやってくれてたら、僕が取り残されるなんてことなかったのに…。
でも、いなくなった人たちを救えたかどうかはわからない。なんだかんだ伝統的な考え方してたから。
でも、応援してくれてたけどね。
家族を切れって言いながら…。

僕は初心者、見習い

いずれにせよ、僕がプログラミング初心者なのは事実。言語もわかんない。
ただ、イメージするのは、ゲーム的な世界だよね。あと作業的なイメージ。

僕の脳内にあるイメージなんて他人が理解できないし、僕が表現した言葉から僕のイメージを推測するしかないよね。
たとえ、同じイメージ、似たイメージを持ってても、僕の表現と他人の表現が一致しなければ、イメージの共有は難しいし、できない場合が多い。

でも、これもまた相互的なプログラム現象みたいな感じがするよね。んで、このイメージの共有に用いる作業がプログラミングだと思ってる。


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