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音楽をやる理由は「上手い下手」や「才能」は関係ない 元芸大生が20年かかって「才能」の呪縛から楽になった話


才能。
音楽や芸術の世界では、とにかくよく耳にする、才能。
努力や練習では決して「才能」を越えることができない、とも言われる。

ところで俺は約20年、尺八を吹いている。東京芸大も卒業している。
が、才能は全くない。

才能がないことを20代の頃は必死に誤魔化し、練習や努力でカバーできると思っていた。でも、カバーできなかった。
30代では才能の無さを受け入れたが、それでもまだプロになりたいと思っていた。でも、結局なれなかった。

そして、38歳でプロを完全に諦めた。
プロを諦めてから、様々なことを手放して、やっと「才能」や「上手い下手」から自由になった。

「才能」や「上手い下手」は、音楽をやるという行為の価値に、ほとんど影響しないことを知った。

この記事は、才能がない俺が20年かかって才能の呪縛から楽になった話です。

1、尺八との出会いと勘違い

俺は18歳のときに四国の大学の和楽器サークルで尺八を始めた。

始めたきっかけは「何か楽器をしたかった」こと、それと「大学から初心者で始める人が多そうだった」から、の二つ。(例えば吹奏楽とかだと既に経験者ばかりで居心地が悪いだろうなと思った)

サークルの新入生歓迎会で初めて尺八を聴いたときの感想は「ずいぶん息の音や雑音が混じる楽器だな」というもの。あんまり好感はもたなかった。
とはいえ、その時には和楽器をやろうと決心していたからすんなり入部した。サークルでは琴や三味線も選べたが、尺八をすぐに鳴らせたので尺八をやることにした。

サークルへは週3回、休まず参加していたものの、1、2年次はあまり楽しくなかった。でも大学内での居場所がサークルぐらいしかなかったことや、サークル内で彼女ができたという理由もあり、サークルはやめずに続けていた。

転機は2回生の終わりぐらいにあった。尺八が今まで以上に鳴るようになり、サークル内で演奏を褒められる機会が増えた。
それに気をよくして、3回生の途中からプロの先生に入門して教えを請うようになった。同時にプロの世界にあこがれを抱くようにもなった。

その当時、俺はいわゆる天狗状態で、プロの先生から特に絶賛されるわけでも、才能を見出されるなんてことは全くないのにも関わらず、俺はプロになれると本気で思っていた。

若い頃にありがちな勘違い状態。
その勢いで上京&芸大に入学。


2、東京芸大と周囲のレベルの高さ


芸大に入れている時点で「なんだ、才能あるんじゃん」と思われるかもしれない。
だが俺は、簡単な童謡すら未だに耳コピで演奏できず、シンコペーションの裏打ちのリズムに対応できず、他人に指摘されるまで半音の違いすら把握できない、そんな男である。

単に尺八が他人よりも(それも大学のサークルレベルで)鳴るぐらいの実力で入学した男だ。
(それと芸大に入学できた大きな理由の一つは、尺八はそもそも演奏人口が少ない、ということがある。これがフルートやヴァイオリンなんかだったら、絶対に俺は芸大には入れないし、おそらくどの音大にだって入れていないだろう。)

そんな男が芸大に入る。
当然、地方の大学でちょっとうまいくらいの俺は周囲の芸大生達の上手さに圧倒される。

大きい音が鳴らせると自負すらしていたにも関わらず、周囲は俺を圧倒するような音量と音圧でガンガン吹きまくる。そして鳴らすだけではなく、音程やハモリ、リズム、曲想やメロディの奏で方についても当然サークルより数倍もシビアに考えている。

この時すでに俺は他人より音感やリズム感が劣っていることを自覚していた。なので周囲から「ちょっとその音低くない?」とか「テンポ感が悪いね」みたいな指摘を受けるたび、分かってないことを悟られないようにするのに必死だった。そして同時にどうにかこれを早く克服しなくては、と思うようになった。

ただ、この芸大生期間は周囲から圧倒され続けるものの、「俺はプロになる」という決心が強かったため、とにかく練習はしまくっていた。

先輩も練習する俺を気にかけてくれたし、アドバイスも沢山もらった。
音感やリズム感は相変わらず良くないものの、尺八の鳴らす技術やメロディの歌い方、気持ちの込め方という部分は飛躍的に向上した。

おかげで25歳のときに全国コンクールで優秀賞をもらえるまでになった。

ただ今思うと、ここが俺の最も良い時期だったと思う。



3、強まる孤立と孤独。練習できない。リハーサルと本番が怖い。

コンクールで賞を取った前後くらいの演奏の仕事の状況はどうだったか。
少しずつ仕事は増えていたが、とても演奏だけで食べれる状態じゃなかった。

一か月の本番回数は多い時で10回ぐらいあったものの、単価が安かったり、無償だったりすることも多く、大体月収が5万円から多くて10万円くらいだった。(足りない生活費はアルバイトと、恥ずかしい話だが仕送りをもらっていた)

このときはとにかく「演奏の仕事ならどんなものでも引き受ける」「プロになるために上京したんだから、無理ですとかできないとか言わない」という信念でやっていた。

だが、その信念とは裏腹に、俺は練習をすることや尺八を吹くことが徐々に嫌になっていた。
その大きな理由は「音感とリズム感がないから、いくら練習しても向上しない。どこが悪いのか自分で分からない。改善できない。」というものだった。

そもそもの基礎がない。練習しても時間をかけても、何も変わらない。

例えば、何かを演奏した時に師匠や共演者から「そこちょっと音程が高いよ」とか「リズムに乗ってない感じがするね」みたいなことを指摘されるとする。その場では「すいません。気をつけます」とか「教えて頂いてありがとうございます。改善します。」とか言う。でも本心では、何がどう悪いのか全く分かっていない。あとで録音をしたものを客観的に聴いたって分からない。

そんなことが重なるうちに「なんで俺はこんな基本的なことも分からないんだろう…」とか「大人になってから音感なんてつかないだろうし、これ以上努力しても無駄だ」「芸大卒とか言って、恥ずかしい人間だ」と思うようになり、自己否定と自己嫌悪を繰り返すようになっていく。

そんな気持ちでいるため、当然人前で堂々と演奏なんかできるわけがなかった。不安な気持ちで舞台に出ることを繰り返していた。それに加え、リハーサルや共演者との打ち上げは地獄で惨めそのものだった。

リハーサルに行くたび、とても憂鬱だった。
リハーサルの場で何も発言できない、自信がないから共演者に気持ちよく話かけたりできない、どうせ俺は周りからお荷物だと思われているにちがいない、と思い続けた。何ひとつ建設的な意見や、場をなごますような一言も発言することもできず、ただ俺は曖昧に頷いたり、薄い笑顔を作ることしかできなかった。

未だに覚えている打ち上げの風景がある。
ある大きな演奏会の打ち上げの席。
30人以上はいたと思う。みんな音楽談義や演奏会の余韻で盛り上がっていた。
音楽の素晴らしさや楽しさを話す人たち、演奏の良しあしやちょっとした失敗に笑顔を見せる人達、今後の活動の展望や問題を真剣に話し合う人達、俺はどの話の輪にも全く入っていけなかった。

気が付けば俺は誰とも話さず一人になっていた。俺は一人でいることを他人から見られたくなくて、携帯が鳴ったふりをして、その場から離れて30分ぐらい居酒屋付近をうろうろしていた。

居酒屋に戻っても誰も俺が不在だったことには気づかない。
俺は誰からも必要とされていない。
俺は飲み会の後は毎回「死にたい」と思っていた。

4、29歳で尺八をやめる

多くの夢見る芸術家やバンドマンがそうであるように、年齢や世間体を気にして俺も尺八をやめることにした。

俺は29歳で尺八をやめた。

気にかけてくれていた師匠や先輩、お琴の先生に「尺八やめます」と伝えて回った。

そのときの気持ちは、尺八をやめて楽になった、というよりも、悲しくて辛い、という気持ちだった。
そして「遠藤みたいな才能のある人間はやめるべきじゃない」と言ってほしい、という甘えた気持ちも強かった。

もちろん何人かの人からは「やめるなんて勿体ない」と言ってくれたし、俺の演奏を評価してくれる人もいた。

でも、俺は多分限界だった。もうこれ以上うまくなれない。音楽について俺は何も分からない。メトロノームに合わせて吹くこともできないし、かえるのうたさえ本番でミスる元芸大生だった。


5、32歳で再起をはかる。が、また挫折。

尺八をやめたあと、就職したほうがいいよな、と思いながらも、結局はアルバイトを二つ掛け持ちして生活を続けていた。

たぶん心の奥底では挫折したことを納得できていなかったということ、そして、就職したら何かが本当に終わるような気がしていたということ。

(あと、俺にはその当時奥さんがいて、俺が引き続き就職しないことについて何も言わなかったことも大きかったと思う。要するに甘えと依存。)

そのころ俺は上手くいかないときや不安になるとき、いつも車のナンバープレートを見ていた。
ナンバープレートの最後が奇数なら「俺の人生はこれから転落」。偶数なら「俺の人生はこれから向上」。どうでもいいおまじないみたいなものだ。
俺は奇数の車が何台か通っても、偶数の車が一回でも通れば、今までの転落人生は帳消しになると、半ば本気で信じていた。いや、信じようとしなければとてもやっていけなかった。

アルバイト掛け持ちをして数年たち、32歳のとき、また尺八をやろうと思うようになった。

なんでやろうと思ったのか、大きかったのは、29歳で尺八をやめたときに始めた読書の影響だった。

遠藤周作や太宰治、村上春樹、佐野洋子なんかを読み「暗い経験でも人前で表現していいんだ」「生きづらさそのものが芸術活動につながるんだ」と思ったからだった。

その考えは今も間違ってないとは思う。
ただ、その表現を音楽に昇華していけるか、周囲に受け入れられるどうかはまた別な話だ。

俺は33歳のときに初めての自分自身のソロコンサートをした。
荻窪で20人も入れば満席というとても小さな会場。

たかだか20人ぐらい満席にできるだろう、俺の表現方法やコンサート方針は間違ってないし、きっと観客の心を打つだろうと思っていた。

でも結局観客は10人弱だった。観客の心をうったかは分からない。だが業界内でさえほとんど話題にすらならなかった。

それでもその時は一定の達成感があったし、一つ前に進んだ手ごたえを感じた。

でも、そこから演奏活動は特に広がらなかった。

相変わらず練習しても何が悪いのか分からない。根本的な音感やリズム感へのコンプレックスは引き続き強かった。弱点克服のために作曲家に一から音感を良くするための訓練を受けた。でも、30を越えての音感訓練、成果はあまり出なかった。

また俺は行き詰っていた。

そんな時に、妻から離婚の申し入れがあった。


6、離婚。資格をとって就職を目指す。

元奥さんとはお互いが20歳くらいの頃に知り合い、恋人期間7年、結婚期間8年と割と長い付き合いだった。

俺にとっての精神的な支柱だったし、俺のだめなところも含めて支えてくれている大切な人だった。

彼女のとの離婚については、結局のところ「俺のふがいなさ」によるところが大きかった。それは俺が現実からずっと目をそらしていたこと、「就職したほうがいいかな」と怯えるような目で彼女の救いを求めていたこと。

離婚して、俺はもう夢を追うとかやめようと思っていた。「ちゃんと」就職しなきゃと思っていた。

離婚のときに相談に乗ってくれた先輩のアドバイスで小学校の教員免許を取って、教員になることにした。先輩から、小学校は人手不足で試験倍率も低めだから今からでも遅くないと言われた。

二年かけて教員免許を取った。勉強は割と楽しかった。教育実習も問題なく終えた。

でも俺は結局教員にならなかった。
別に音楽に未練があったわけじゃない。ただ、感じたのは教育実習での学校教育そのものへの違和感。あと、俺はそもそも「子どもが苦手」であることを忘れていた。いや正確には気づいていたのに自分をごまかしていた。

「ちゃんと」就職しなきゃと思うあまり、自分をごまかしていた。

また一緒だと思った。

俺はいつも人の目を気にする。
俺がなりたかったのは「尺八演奏家」ではなく、「尺八演奏家という音楽に携わる職業について周囲から羨ましがられる立場」だった。
それと同じように、俺は「小学校教員」を目指していたのではなく、「安定した職業について周りから認められる立場」を求めていた。

俺はもう、こんなことはやめようと思った。自分の気持ちをごまかしたり、見てみないふりをすることや、違和感をなかったものにしてやり過ごすことは。

もう俺は離婚して一人だし、もう誰かの期待に応える必要とか、愛する家族のために、みたいなものもない。

それなら、これからは自分の中の違和感と本心を大切にしていこうと思うようになった。


7、無理しない 嫌なことをしない できないことをしない

教員をやめて何をするのか。

俺は結局ずっと続けていた電話オペレーターのバイトを続けながら、生活費を抑えるために家賃3万円の部屋に引っ越した。

いったい俺は何を求めているのか、紙とペン、パソコンを使って一週間考えた。結局俺が一番欲しいのは「自己肯定感」だということに気づいた。

ならばこれからはそれを直接、なるべく早く満たすことを行動基準にしようと考えた。そして「無理しない、嫌なことをしない、できないことをしない」という行動方針をかためた。

そして尺八については、俺はもう上手くなれないし向上もしない。だからもうそれらを求めるのはやめることにした。

演奏の上手さや才能を求められる世界、つまりプロの世界は俺には向いていない。たぶんそこでは幸せになれない。だから、俺はもうプロを目指さないし、プロには「ならない」。

俺は自分に無理なことをさせるのはやめようと思った。

そう思って去年(2019年)俺の出来る範囲内で自分にとって意義と楽しさを感じる活動や演奏だけをした。

住んでいる地域の老人ホームや福祉施設での演奏。演歌や童謡、民謡、全くおしゃれでも最先端でもない音楽を一人で吹いた。MCも沢山考えて練習した。演奏以外でも楽しんでもらえるように着ぐるみを着たり、がまの油の口上をしたり、ひょっとこ踊りもした。

たくさんの人が楽しんでくれた。「また来てほしい」とたくさん言われた。
都心の大ホールから対極のような、東京郊外のこの小さな福祉施設で、30分かそこらの泥臭い本番で、多分俺は自分にとって最も大切な「俺の音楽」や「俺の芸術」みたいなものを見たと思う。

今まで通過点とか踏み台みたいに思ってた小さな会場の舞台が、実は一番自分に合っていて、それこそが一つの到達点だということにやっと気づいた。

有名人との共演とか、最先端でお洒落なコラボとか、コンクールで優勝とか、SNSでバズるとか、俺にはできない。もうそんなのはいい、俺は俺のやり方で音楽をやっていいんだと思った。

俺は今40歳でフリーターで、去年の年収は240万円だ。ついでにいうと多分今年は190万円だ。

コロナで先行きは不透明この上ないし、老後だって不安だ。

でも、俺はこれからも音楽をやる。誰がなんといおうと俺は俺のやり方でやる。

8、俺は俺の音楽をやる。だからあなたもあなたの音楽をやって欲しい。

音楽をやる価値はそれぞれ個別のものだと思う。

こうすれば成功とか、これがプロみたいな基準はない。

あるのはただ自分が音楽をする意義とか楽しさとか、そういう自分の気持ちや在り方。または自分と他者・社会との間にある関係性や問題意識、可能性の中にあると思う。

コンクールで優勝することや、偉い先生に気に入られること、武道館を目指すことも俺は別に否定しない。嫌味でもなんでもなく。

ただおそらくそれは全員には無理だし、全員に合った方法でもない。

結局は、あなたがやろうと思ったことをやるしかない。

あなたにとって何が幸せで、何に喜びを感じて、何が気になって仕方ないのか。あなたはどうして音楽をするのか、どうしてプロにならなきゃいけないのか、それはプロじゃなきゃダメなのか、就職したら負けなのか、才能はなきゃダメなのか、下手な人間はどこかの小さな会場で趣味でやるしか道はないのか。

そして、それらの気持ちは、本心なのか見栄なのか同調なのか反抗なのか。

音楽家それぞれが個々の価値観や生き方と向き合って、自分のやりたいことを探していくしかないと思う。

でも、もしもあなたが「才能がないから」とか「下手だから」という「下らない」理由で音楽を手放そうとするは、どうかやめて欲しいと思っている。

音楽は最初から最後まで自分自身を救い励まし続ける。どんな状況でも音楽をイメージした瞬間に音楽は真っ先に自分自身を救う。だから、音楽から離れても、嫌いになっても、やめるべきじゃないと思っている。

あなたが今、好きな音楽(好きなアーティストの曲でも、家族が歌ってくれた歌でも、懐かしい思い出の曲でもなんでもいい)を静かに思い浮かべて欲しい。その時にできた感情の揺らぎや小さな喜びみたいなものこそ、俺が音楽を続けるべきだと思う最大の理由だ。

つまりは生きているということ。存在しているということ。つながることができるということ。

上手い下手や才能はどうでもいい。
俺は俺のやり方でやる。だからどうかあなたもあなたの音楽をやって欲しい。

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