正体が判明!そして新型コロナウイルス禍だからこそ見えてきた『20世紀少年』が問う“ともだち”の罪
1999年。
みなさんは何をしていたでしょうか。
バイアグラが厚生省に認可され、石原氏が東京都知事に当選し、スター・ウォーズのエピソード1が公開され、AIBOが発売開始し、国旗国歌法が成立し、東海村JCO臨界事故が発生し、『ONE PIECE』のTVアニメが放送開始し、バイアグラが厚生省に認可された1999年。
みなさんはナニをしていたでしょうか?
――1999年。
その年、「ビッグコミックスピリッツ」でとんでもない作品の連載が開始されました。
そう、『20世紀少年』。
前世紀である1999年から2006年まで連載された『20世紀少年』。
その完結編として2007年に発表された『21世紀少年』。
浦沢直樹先生の本格科学冒険漫画で、映画では3部作が公開され、大ヒットしました。
主人公たちがこどものころに作った「よげんの書」の内容をなぞるように、カルト集団による事件やテロが発生。
そのカルト集団を先導する“ともだち”と呼ばれる人物は同級生の誰なのか? というナゾを切り口に展開していくミステリー仕立てのSFコミックで。
よく飲みながら「犯人はマルオなんじゃねーの?」とか「ケンヂが実は多重人格で」とか「そもそもケンヂはケンヂじゃない」とか、ありえないぐらい予想しあっていたのを思い出します。
そして、最近でも『20世紀少年』の話になると多いのがこのフレーズ。
「あれ?結局、“ともだち”って誰なんだっけ?」
思い出しにくいという(笑)
しかも説明しにくいという。
「1人目の方、それとも……」
みたいに話が長くなりがちなわけですが、どうにもモヤモヤっと残るものがある。
既読勢の皆さんも、思い出してみてください。もやっとしてませんか?
「“ともだち”って何だったの?」と。
実は『20世紀少年』、ただ面白がらせるエンタメコミックとしてももちろん最高峰なんですが、めちゃめちゃディープダンジョンになっているんですねぇ、これが。
ちょっとやそっとじゃ読み解けないぞ、となれば、再びこの人物の力を借りることにしました。
いでよ!
ONDぃ~!
漫画を深く読む弁護士こと小野田峻さんの登場と相成るわけでございまして(ONDと呼ばれたことはないかと思いますが)。
↓小野田さんとの今までの記事はこちら!
今回は難解なタイトルなので、お互い事前に予習をしておいて、お決まりの焼きそば屋に集合したわけです。時の頃はまだ、Beforeコロナの2019年12月でした。
「いやー、今回はさすがにメモしまくってきちゃいました」とこちらの手帳に書きまくった『20世紀少年』メモを小野田さんに見せると、
「いやー、私もメモしながら読み返しました~」とタブレットに書きまくったメモを見せてくる小野田さん。
タブレット、いいな……。
そんな感じで始まった『20世紀少年』を読み解く会。
まず動いたのは小野田弁護士。
「ちょうど私、『20世紀少年』の連載の後半辺りって司法試験の受験生の頃だったんですが、当時、大学時代から取り組んでいた自主映画の制作やラジオドラマの脚本の執筆を我慢していたということもあって、勝手に『20世紀少年』のスピンオフの脚本の構想を頭の中で練っていたことがあるんですよね。」
「なんですかその話は(笑)。その話だけで飲めそうですねぇ。」
と、のたまいながら、わたくし、トマトハイをぐびり。
「登場人物や大枠のストーリー展開はほぼほぼできてたんですけど、今回、川口さんと『20世紀少年』の考察をすることになって改めて考えてみると、今ならもっと面白いスピンオフが作れそうだなと(笑)」
「どんな話なんですか?」
「川口さん、『20世紀少年』に、“ともだち”や友民党と戦った市原節子と新倉って弁護士が出てきたの、覚えてます?」
「ああ、いましたね。カルト化した“ともだち”に息子や娘を奪われた家族のために動いていた、あの人たちですね」
「メインストーリーの中だと、彼らってユキジやヨシツネのサポートでしか出てこないんですが、でも、あれだけ行政権が暴走して、表現の自由が制約されていって“ともだち”が神格化されていく社会だと、市原節子や新倉はおそらく、彼らだけでなく、いわばドリームチームのような弁護士チームを結成して“ともだち”と闘ったはずなんですよね。
そういう描かれていない存在がいないと、あれだけ情報収集に奔走していた市原節子が消されずに、最後まで生き抜けたはずがないので。」
「おお! 予想以上に重厚なお話そうですが(笑)、凄く面白そうです。」
とワクワクしながらまた、トマトハイをぐびり。
「スピンオフの中身の話をしだすと今日の本題からズレるので、それはまた別の機会に譲るとして。今日話したかったのは、法律が内閣や特定の立場の人間だけに有利に作られたり、運用されたりする社会になっていくことや、その過程で弁護士が団結してそれに立ち向かい、でも敗けてしまうってことは、何も『20世紀少年』の中だけではないって話で。
現実の私たちの社会でも起きていて、特に第二次大戦前から戦中の時期がまさに如実にそうで。
で、これ確か、その辺りの歴史が書いてあった本があったなと思って、今回のために取り寄せて読んでみた本が、こちらです。」
そこで小野田さんがしゃっと取り出したのは、専門家しか読まないであろうめちゃめちゃ渋い書籍だった。
JLF選書『職業史としての弁護士および弁護士団体の歴史』
小野田弁護士がまた、この書籍をいい感じにちまちまとめくりながら解説を始めたわけで。焼きそば屋なのに充実のおつまみとトマトハイが止まりません。
「もともとは『20世紀少年』の考察のためだったはずが、目次から手繰って読んだ箇所が、想定外に私の今の社会起業家支援を専門とする弁護士という役割に刺さりまくる話ばかりだったので、まずは、この話からしても良いですか?(笑)」
「もちろん!」
「ありがとうございます。ちゃんと『20世紀少年』の話に着地するので、しばしお付き合いを。
川口さんには既にご存知いただけているかとは思いますが、私は、弁護士というのは、多様な利害調整とトライアンドエラーが求められるこれからの時代、社会改善ツールとしての役割を担えると考えていて。
それは官でも民でもない公の領域を調整していく役割であるとも思っているんですけど、それって従来の弁護士像とは異なるし、そんなことを言っている弁護士もほとんどいなければ、言ったところでキョトンとされるんですよね、まだまだ。
今でこそ、社会起業家支援における弁護士の役割を、抽象と具象の両方からうまく説明できますけど、弁護士になりたての頃はそこまで端的に整理できませんでした。
とはいえ、新しい時代だからこそ『弁護士像』の刷新が求められているのではないか、っていう問題意識だけは当時からありまして。
その後、東日本大震災の復旧復興支援をきっかけに、本格的に社会起業家支援を続けるにつれて、いや、おそらくそうじゃないなと。これはもともと弁護士に必要とされていた役割だと。
であれば、自分だけじゃなく、弁護士であれば誰であっても担える役割じゃないかと気づいて、それ以降はどこに行っても、従来の弁護士像と全く異なるわけじゃなく、弁護士サイドが頭を切り替えるだけですよって話をするんですけど、やっぱりキョトンとされる(笑)。いやあ、小野田先生は新しいねえ、と言われてしまう。
その感じにずっと違和感があったところにこの本。この本にまさに、「社会問題と弁護士活動」について書かれていたんですよね」
そこで小野田さんも、トマトハイをぐびり。
「その項目の記述は、大正8年8月に日比谷の松本楼で自由法曹団が結成されて、まずは労働問題における官民衝突の場面で、弁護士団という新しい団体が求められたことへの言及から始まるんですが、その中に、こんな記載が出てきます。
『従来、弁護士と社会問題の関係をどう考えるべきかが問題とされたことは、極めて少なかった。殊に、わが国の弁護士の職務が法廷だけに限局されていればいるだけ、法廷外の社会への関心は薄かったと言わなければならない。わずかに、その問題の重要性を指摘していたのは、卜部喜太郎だけである。卜部は、すでに明治31年に発表された『社会問題と法律家』と題する論文において……述べている。』
この弁護士の職域の話、私が2011年に弁護士登録してから今までの間、弁護士会の内外で聞いてきた議論とほとんど変わらないんですよ。つまり、明治の時点で既に問題提起されていたことを今も議論しているっていう(笑)。
痛快だったのはさらにこの後の記述で、時代の進展とともに、弁護士階層の中に、社会問題との関連を意識する者が増えていったのは明治43年以降だと指摘した後に、こう続きます。
『(弁護士の)平出修は、大正二年に『弁護士は社会改良の首唱者たるべし』という論文を日本弁護士協会録事にのせている。これは平出に寄せられた無名の葉書が『弁護士などは革命家となる資格はない。強者と弱者との間に立っていい加減の生活をしていく寄生虫だ』と非難していることに対して書かれたものであるが、平出はそのなかで、社会改革が無計画の暴動や破壊によって成功するものでないことを知るならば、自由・平等の弁護士は、むしろその改良運動の先端に立ちうるものである』
ときて、さらに次です。
『しかし今の弁護士社会は、口は平民にして生活は貴族的であって理想がなく、とても社会改良など口にできない、社会改良の調和的発展のために弁護士はその先鋒たることを覚悟すべきだ、と論じている。』
と来る。ここ。これ、弁護士自身が論じてるんですよ(笑)。痛快ですよね。
今の弁護士、特に若い弁護士はとりあえず「生活は貴族的であって」とは決していえないんですが(笑)、少なくとも私にとっては、『社会改革が無計画の暴動や破壊によって成功するものでないことを知るならば、自由・平等の弁護士は、むしろその改良運動の先端に立ちうるものである』という、この部分が刺さりすぎて、思わずこの論文の原典を探してだしてコピーしてしまいました(笑)。この言葉、まんま今も当てはまるなあと。」
法曹ジョーク?いやいや飽くなき探究心、いただきました~。御馳走様です。
さらに小野田弁護士の解説は続く。
「この本では、社会運動に関係する弁護士が最初に遭遇した悲劇的な事件として、大正13年の伏石(ふせいし)事件というものが取り上げられています。
香川県大田村伏石というところで起きたこの事件は、簡単にいえば、地主側が、土地の使用料を払わない小作人らへの対抗手段として、収穫前の稲を差し押さえて競落してしまったせいで、小作人側が刈取りができなくなったという話です。
刈取りが遅れると麦播きができない。なんとかできないかと小作人側から相談された若林三郎という自由法曹団に属する若手弁護士が、民法の事務管理という規定を使って、適法に稲を刈り取って保管し得る法律構成を回答。
そして、現地に出向いて説明までしたところ、小作人だけでなく、この若林弁護士まで窃盗教唆で起訴されてしまいました。
大弁護団の奮闘虚しく、一審が懲役10月で実刑判決、控訴・上告とも棄却されてしまったため若林弁護士は服役。
そして出所した3日後、昭和3年3月1日、2歳の長女を絞殺したうえ自殺した、とそういう痛ましい事件です。
この事件についてこの本は、次のように語っています。
『この伏石事件は、法律上の問題も多く、また捜査の過程に置いて人権蹂躙問題をおこしているが、青年弁護士若林の実刑とその死は、社会運動にたずさわる弁護士の苦悩を物語っている。社会的弱者であり、迫害をうけている階層は、多くは法律的に無力であり、法的知識とその援助を必要としたし、その要請に応えるは弁護士の重大な職務の一つであった。しかし、弁護士という職務上の枠は、この困難な任務を、さらに一層困難ならしめたのである。暴力行為処罰法にせよ、治安警察法にせよ、さらに治安維持法にせよ、当時の為政者は、小作人・労働者たちの社会運動の合法性の枠を、はなはだしくせばめた。そのことは同時に、これらの運動を支援する弁護士の職務の枠をも著しくせばめたのである。したがって、それらの弁護士は、以来、社会運動の要請と、弁護士たる職務の合法性の限界との間に悩みつづけざるをえなかったのである。すなわち、社会運動に参加する弁護士は、運動に対する奉仕者であるのか、法律家としての枠における協力者にとどまるのか、前者であるとすれば、もし社会運動が合法の枠をこえたとき、弁護士はいかにすべきなのか。法廷から社会に出た弁護士に問いかけられた問題は厳しかったのである。』(引用、125頁〜133頁)
「この記載は、社会起業家支援という私の業務における難しさと重なると同時に、『20世紀少年』における市原節子や新倉ら、弁護士たちの戦いにも繋がっているように感じました。もちろん、憲法が想定する三権分立が適切に機能し、議会制民主主義が正しく運用される限りにおいては、当然、法の定めた枠を出たりそれを助長したりすることは問題外です。
ただ一方で、イノベーションという観点から見て、多様な利害調整とトライアンドエラーが求められる今の時代に、果たして一時の調整結果にすぎない既存の「法律」というものを常に無批判に前提とするべきなのか。
あるいは、表現の自由や個人の尊厳が制約されていく状況にあって、行政権の暴走や特定の個人や組織に異常なまでに権力が集中していくことを黙って見過ごしてしまっていいのか。
現に戦時下では、弁護士会が全国に委員を派遣して、警察官による凄まじい人権蹂躙の事実を調査し、報告書にまとめるといったことも多数なされたものの、結局は、日本の急速な軍国化の前夜において、「治安維持法による弾圧は、共産党関係者に限られず、きわめて多くの人々がこれによって処罰」されていき、「圧倒的な軍国主義時代の狂熱のもとでは、弁護活動はほとんど効果をあげえなかった」とされています。
また、この点について『20世紀少年』の中でも、『ともだち』の意に沿わない漫画家たちが「新青少年保護育成条例」で次々と逮捕され、さらに、女子高生の小泉が、ほんの数十年前の過去の新聞を通じて、弁護士や文化人たちが大量に不審死を遂げていたという、授業では決して教わらない事実を知って怯えるという場面が出てきます。
これら現実と漫画のリンクは、『司法における弁護が、その機能を発揮しうるには、民衆の基本的人権が保障され、裁判所が違憲審査権を持つような社会体制であることが前提となる』ことをわかりやすく示しているともいえますよね」
と、神妙な面持ちの小野田さん。
そこから一転、表情を崩す。
「ここまで説明すると、行政権が暴走していった『20世紀少年』の世界で、市原節子や新倉が弁護士チーム、例えばそうですね、7人くらいのチームを結成して“ともだち”と闘ったはずだっていう私の妄想も、リアリティを感じてもらえると思うんですけど、いかがでしょう?(笑)」
「確かに!もうそのストーリーしか考えられません!」
「彼らがいかに闘い、そして、いかにして“ともだち”の権力に敗けていったか。逆に、『21世紀少年』の大団円に至るその裏で、いかにして彼らが仲間たちの犠牲を乗り越えながら想いのバトンを受け渡していったか。
スピンオフは、そこを描く物語として考えていました。
ちなみに、メンバー全員が生き残れるわけではないところや悲壮感があるところは、黒澤明の『七人の侍』のイメージですね。『七人の弁護士』、だと垢抜けないタイトルですが(笑)。」
なんかスゲーです。
『20世紀少年』を読みながら見えざるエピソードを夢想していたなんて。
『ローグ・ワン』みたいで流行るかもしれないなぁ、とコンテンツプロデュースをやっている自分としてはちらっとよぎるものが。
「ちなみに、さっき話した『20世紀少年』の中の新青少年保護育成条例違反で処罰って話、憲法や他の法案と整合性の取れない法案を通す、あるいは、恣意的な解釈適用、と言い換えると、これって私たちもどこかで目にしていませんか?」
「小野田さん、それってひょっとして……」
戦慄がはしりました。
小野田さん、きわどい話をするときのテレパシー、出ちゃってます。
「***だとか***とか、みんなが知っているあの」と小野田さんが言い始めたところで、あっ。
ここで川口は気づいてしまいました。
気づいてしまったのです。
『20世紀少年』と現実世界のもう一つのリンクを。
そして思わず口走る。
「小野田さん、つまりあの人も自分についてくる“ともだち”を選んでいるのでは?」
はっはっはっは~。爆笑する小野田さん。
「それ、面白いですねぇ。そもそもが『20世紀少年』って、浦沢先生が、歴史を下敷きにして予言的というか、あり得る近未来を書いていらっしゃったと思うんですが、そこの一致までは偶然にしては出来過ぎですね。」
「そこの一致というと、他にも一致が?」
「ああ、はい。わかりやすいところですけど、作中の2度目の大阪万博の開催とか、あれ現実世界で招致が決定したのは2018年ですし、あとは、蝶野の台詞の『東京都が始めようとしたカジノが、開業直前、知事がリコールされて中止になったって』ってセリフも、どこかで聞いたような話ですよね。
さらに個人的には、血の大晦日に、ユキジやモンちゃんが友民党の本部に乗り込んでいったシーンで、信者たちが、必死で世界を救おうとするモニター越しのケンヂを大笑いしていて、それに対してモンちゃんが、
『笑うな!!必死で地球の平和を守ろうとしているあの男を笑うな!!』
と鬼の形相で怒るというあの対比は、社会課題や地球規模の課題に必死に取り組む人たちとそれに冷笑を送る人たちという構造を予言していたようにも読めます」
作中にも「よげんの書」は出てきますが、いよいよこのコミック自体が「よげんの書」めいてまいりました。
そこにさらに、トマトハイの影響か、はたまた小野田さんの爆笑をとったからか、気分を良くした川口から、満を持して持参した自説を開陳!(韻踏み!)。
「実はそれに関して自分も思うところがありまして、川口の『20世紀少年』論を。
あれだけの人々を惹き付けた”トモダチ”一味が社会貢献する道があったかどうか、というお話です。」
「わあ、それめっちゃ面白い切り口ですね!」
そして川口のターン。
「カルトとはいえ、あれだけの人々を巻き込んで組織を作っていく求心力や演出力はやはり素晴らしいことかと思っています。あれを小野田さんたちが取り組んでおられるような社会課題解決に生かせなかったのかと思うと、非常にもったいないですよね。
なぜ“ともだち”はそういう発想にならなかったのか。
理由は色々とあったかと思いますが、結局は、友達を欲しがり、正義の味方になりたいという動機から始まったはずのものが、必要悪の使命を果たしていくことで逆サイドに振り切ってしまい、むしろ誰かに止めてもらいたい状態にまでなってしまったのではないかと思っています。
後半でケンジが『悪のほうが大変、正義のほうが楽』と発言するあたりに作者のメッセージを感じます。
もうひとつのテーマは、パクりからの暴走です。
人の発想をパクっただけなのに、気がつかないうちにそれが自分のオリジナルになっていき、やがては最初の目的から遠く離れた目的に取り憑かれてしまうという。
これはヒューマンエラー的な部分で、基本的に何かをトレースして生きているような場合、オリジナルをマウンティング(克服かつ超越)したい欲求が生きる糧になってしまい、やがてはそれが暴走につながるのかと。浦沢作品でよく出てくる『偽物』というテーマには、そういった共通理念があると思ってるんですが……。そう考えると、そこもちょうどあの人と一致しますね」
「お祖父さんのこととか?」と小野田さん。
「レーガノミクスも。」
思わず失笑する小野田さんと川口。
やはり、“ともだち”とは浦沢先生の予言であったというわけで(ここにさらに、パンデミックまでが重なってくるとはこの時は思いもよりませんでしたが)。
そしていよいよ、我々二人は、『20世紀少年』の最難関である“ともだち”、カツマタ君の正体に迫ります。
〜以下は、『20世紀少年』と『21世紀少年』のネタバレが伴いますので、未読の方は、原作をお読みいただいてからこちらまでお戻りください。〜
カツマタ君は第1巻から既に名前が出てきます。
ドンキーのお通夜のあとで同級生が集って同窓会的に話しているシーン。
モンちゃんの口から、
「カツマタ君ていただろ?」と。
ケロヨンからは、
「そう!理科の実験大好きの、カツマタ君。」「フナの解剖の、前日に死んじゃって。」
という扱いに。
ここで川口が、焼きそばを咀嚼したのち、登場人物メモを見ながら“ともだち”についての振り返りをいたしました。
「えー、サダキヨは、今回はスルーでいいとして、まずはフクベエ。ハットリ君のお面の初代“ともだち”ですね。まぁ彼の求心力といいますか、彼なら何らか社会を良くする役割も担えたかもなぁという惜しい人物なのですが事故かはたまた策略か、命を落としてしまう。
となると難関はやはり、フクベエを引き継いだカツマタ君なんですよね。彼は顔をフクベエに整形までして“ともだち”になりきっていたのですが、今回読み直しても、最後まで腑に落ちなかった、気になる台詞があるんですよ」
「どれですか?」
「『ああ~、僕が…僕こそが……20世紀少年だ』というカツマタ君の台詞です」
「あぁ!それ、私も気になりました」
「これって確実に、浦沢先生がなにか想いをのせてきている台詞だと思うんですよね。ただそれが何なのかが、わからない。」
「うーん。たしかに難題ですよね、これ……」
指を顎にあてる小野田さん。
おでこに指をあてていたらコロンボなんですけどね。
あごに指をあてているので古畑の方が近いか。
小野田さん曰く。
「人知を超えた、超能力的なものがフクベエだったかと思いますが、それを引き継いだ人間がペテン師で、オリジナルより大きなものになっていったっていう、その構図自体、20世紀的なものを感じるんですよね」
「偽物が本物よりも本物になった、というやつですか?」
「はい。80年代から90年代にかけて、超自然的なものとか、逆にインチキ科学みたいなものって流行りましたよね。振り返ってみればあの頃って、世界的な流れを見ても、単にそういう俗物的なものだけじゃなく、アカデミックなものとスピリチュアルなものが相克しあっていたなと。そして日本の場合、そこからさらに、オウム真理教、1995年の地下鉄サリン事件へと続いていった。誰よりも本物を求めていたはずの高学歴な人たちが、偽物に吸い寄せられ、偽物を本物にしようとする行為に加担し、大きく道を踏み外していくという、極めて不幸な矛盾が起きてしまった」
「なるほど」
「カツマタ君は、そういった時代の変遷の象徴として、自分のことを『僕こそが20世紀少年だ』と言った、とか?……うーん、決め手に欠けますね」
うーん。
二人で腕を組んで考え込んでいると、不意に小野田さんが呟く。
「Tレックスの20 century boyの歌詞、見てみますか……。」
おいおいおい、まさかの。
作中に何度も出てくるその曲の歌詞の和訳を、スマホで二人、覗き込んで見てみると……。
サビのラストには、こう書かれていた。
「俺はお前のおもちゃ。お前の20世紀少年さ。」
「……あっ!そうか!これですよ、川口さん!」と小野田さん。
「えっ?あなたのおもちゃになりたい、みたいな内容、ですよね……。」と川口。
「お前のおもちゃ、お前の20世紀少年。つまり、“ともだち”、カツマタ君は、世界にとっての20世紀少年ではなく、ケンヂただ一人にとっての20世紀少年だったんですよ。」
「どういう意味ですか?」
「つまりですね」
おぉ、小野田さんが締めくくろうとしている!
「ケンヂが世界を変えるために放送室で20 century boyを流したあの日。なんにも変わらなかったとケンヂは思っていた。実際、ケンヂたちの小さな『世界』は何も変わらなかった。その『世界』の一員として扱われていなかった、カツマタ君という、一人の少年を除いては。
自分はこの“ごっこ遊び”のような『世界』の一員じゃない、そう思っていたのに、ケンヂが流した20 century boyという曲が、そして、そのケンヂだけが唯一、自分が『世界』に存在していい理由を、役割を与えてくれた。“ともだち”という役割を。
だったら僕は、ケンヂの“ともだち”であり続けるために、彼の望む役割を果そう。果たし続けよう。彼が『世界』を救う正義の味方になることを望むなら、僕は悪の親玉になろう。彼がこの『世界』にとっての真のヒーローになれるように、僕はこの『世界』にとっての真の悪者になろう。“ともだち”として、ずっと遊んでもらうために。なぜならそれが、僕の生きる理由だから。カツマタ君はあの日、そう考えたんじゃないでしょうか。だからこその、「僕こそが20世紀少年だ」というあの台詞。
カツマタ君は、ケンヂのおもちゃになるために、悪の親玉になると決めた。ここで第1話と最終話が、本当の意味で繋がるわけです」
小野田さんがそう言い終えると、二人黙って、顔を見合わせて、
ぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞ、ZOZO。
鳥肌ぞわー!
「うわー小野田さん、解けましたね~~これ」
つまり、“ともだち”とは友達になりたくて悪になった存在だったと。
正義を成立させるための悪。
どえらい作品だったわけで。
「やぁやぁ、すんごい結末に着地しましたねぇ」と讃え合い、小野田弁護士と川口の宴はここでひとまず終了し、それから4か月が経った。
そして、2020年4月。
日本は、いや、『世界』はとても深刻な状況となってしまった。
新型コロナウイルスの登場でディストピア化した今、我らが愛する『20世紀少年』に状況が似てきましたね、と我々は連絡を取り合った。
改めて、『20世紀少年』から何を読み取り、この状況とどう向かい合っていけばよいのか。それを2人で考えてみることにした。
にしても、昨年はONE PIECEで一触即発の決闘をした我らであるが……
仲良しだなぁ~
まず、『20世紀少年』の中で起こった事件をざっと順に見てみましょう。
〈20世紀少年年表〉
1997年 サンフランシスコで謎の病原体が発生し、死者が50人越え
1997年 ロンドンでも謎の病原体被害
1997年 羽田空港爆破
2000年12月31日 世界同時多発テロ発生(細菌テロ)
2001年 “ともだち”がウイルスのワクチンを広めて世界を救い、国連から称えられる。
2015年 世界各地でウイルスが猛威をふるう。
2015年 万国博覧会開会式で、衆人環視の下、ローマ法王暗殺を阻止し、“ともだち”が身をもって撃たれるが、後に甦る。
2015年 日本では外出時に防毒マスクが必要になる。
2017年 “ともだち”が地球滅亡計画を発表
次に、新型コロナウイルスが猛威をふるう日本の状況を……ここで振り返るのは、あえてやめておきましょう。
ただ、今この原稿を書いている時点でメディアやインターネット上に踊っているのは、「自粛」、「補償」、そして、「緊急事態宣言」という言葉。
ふと、「小野田さんは今のこの状況をどう見ているのだろう?」と、川口は素朴にそこが気になりました。
私から尋ねられた小野田さんは、限られた時間の中で、緊急事態宣言に関する日本の法制度の話や、コロナ対応から推測される政権の真意などを話してくれました。
その中で特に興味深かったのは、こんな話。
「川口さんの求めるものからはちょっと逸れますが、今回の自粛要請や緊急事態宣言といった、いわば国家権力と個人の対立という場面について考えるとき、私はいつも、『勧進帳』という歌舞伎の演目を思い浮かべます。
『勧進帳』は、簡単に言えば、指名手配になった源義経一行の一員である弁慶と、安宅の関という関所の関守の冨樫の問答劇ですが、この話の中で冨樫が晒されているのが「権力」だよなあと、私は以前から思っていました。
冨樫は、源氏の棟梁である源頼朝の命令に従い、山伏に身をやつした弁慶を詰問します。詰問を始める時点ではまだ、冨樫は仕事をこなしているだけで、権力云々という話ではありませんし、義経の側も指名手配犯として逃げているわけですから、この段階で両者を律しているのは、いわば命令という名の法、ルールです。
やがて、冨樫は気がつきます。目の前の山伏たちが義経一行であることに。
ここから先の冨樫の行動、つまり、彼が、山伏連中が義経一行だと知りつつ関所を通したことは、お芝居としては『仁義』という言葉で称えられるわけですが、本来はそんなに単純な話ではないはずです。なぜなら、義経一行を通してしまった冨樫には、その後、死が待っているわけですから。
冨樫は、山伏たちの正体に気づいてしまった時点で、選択を迫られたわけです。
会ったこともない見ず知らずの頼朝の命令、つまり権力に従うのか。
それとも、目の前の義経や弁慶に心動かされた、自分の心に従うのか。
冨樫が前者を選んでしまったら物語として成立しないだろう、と言われてしまえばそれまでです。
が、そうは言っても、冨樫が前者を選ぶことだって十分に劇的ですし、観る者はおそらくそこからも何かを感じ取るわけです。むしろ、こっちのストーリーの方が「権力」というものの無慈悲さや不条理さを感じる、という感想もあり得るところでしょう。
それでもやっぱり、私は、義経一行を通してしまった冨樫のその先を想像したとき、権力の不条理さを思うんですよね。
権力は、時として、肉体的な死や精神的な死、あるいは社会的な死をちらつかせて、選択を一個人に迫ります。本来は何にも縛られないはずの個人に、行くも帰るも本心ではないという状況で、『さあ、選べ』と迫る、それが権力です。
肉体的な死がちらつくというのは、平時の日本であれば、具体的なイメージが湧きにくかったかもしれませんが、今の状態なら、私たちの身にも起き得るんだということが、誰にとっても身近になったかもしれません。
権力が突きつけてくる不条理さ、どこかで見た、聞いた話と似ていませんか?
そう、情報公開や審議が尽くされない、結論ありきのこの国の権力が楯にとる「多数決」と似ています。
多数決も権力も、個人の意思とは無関係に個人を動かすシステムであるという点では同じなんです。こういうシステムは、ある意味で、集団を動かす上でやむを得ないと言うこともできるのかもしれません。
でも、だからこそ、集団を動かす側の人間は、そのデメリットに自覚的である必要があるのです。
多数決も権力も、それそのものでは、少数派の意思を制約するだけの根拠を持ち合わせていません。正しい、とはいえないんです。デメリットを補正するシステムが、適切に機能し続けていること。それだけが、多数決や権力の、正当性の根拠です。
そう思うと、改めて権力の正体というか、『権力』という力の作られ方を考えてしまいますよね。
……あっ、今ふと思ったんですが、もしかしたらカツマタ君は、目の前の大事な人のために動く力を、友達という関係性が生む力、“友力”と呼び、その力が“権力”と同じものだと勘違いしていたのかもしれませんね。
権力に従って動くということと、目の前の事象に心が震えたから動くということとは、全く別のものなのに」
子曰く、ならぬ、小野田さん曰く。
余談ですが、うちの3歳になる娘が『勧進帳』のDVDを毎日見ていまして、この小野田さんの説明を娘にしてやらなくては、と心に誓いました。
さて、では“よげんの書”めいていた『20世紀少年』は、「脅威」や「危機」との向き合い方について、どう語っているのか。
印象的な台詞で見ていきましょう。
まず、第4巻のオッチョの台詞。
「しっかり目を開いて、恐怖の正体を見きわめろ」
デマや感情的な声に惑わされずに事態をしっかりと見極めていくこと。
そして、第7巻のモンちゃんの台詞。
「必死で地球の平和を守ろうとしているあの男を笑うな‼」
一生懸命に何かを訴えている人を笑って真意を聞き逃さないこと。
そして、ケンヂのカセットの中の歌にある一節。
「みんな家に帰ろう♪」
たまたまですが、そのまま「みんな家に帰ろう♪」と。
さらに、最後を締めくくるのはやはり、ケンヂが最終巻で放ったあの言葉。
「別にいいけどさ…………友達なんてなろうって言って、なるもんじゃないぜ。」
ここからここまでが「友達」、と線引きして決めることによって、
「友達だからよくするよ」
「友達以外は大切じゃないよ」
という振る舞いが生まれてしまう。
そんなのみみっちいぞと。せこいぞと。
「友達ごっこ」な~んて捨てて考えると、この苦難の中でどんな行動をとっていくべきかが自ずと見えてくるんじゃないの?
最終巻のあの言葉は、そんなケンヂからのメッセージなのではと思えてくるのです。
「友達」なんて決め合わない人も大切にしようぜ、という実家のカレーライスのような素朴なふるまいが、『20世紀少年』の中にあります。
この社会に生きる全ての人たちを守るために、Stay Home。
そうだ、みんな家にいよう。
新型コロナウイルス禍の最中ではありますが、まさに今再読すべき作品ということで長くなりましたが、紹介させていただきました。
※この記事は2020年4月19日に漫画新聞で初出掲載されたものです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?