視える世界が変わると野草を摘みながら思ったこと
ここも段々と春らしくなってきた。
昨日は田んぼに水入れをし、来月は田植えが始まる。
人生生まれて初めての稲作だ。
小さい頃は島で育ち、周りは赤土とサトウキビ畑で、田んぼはなかった。
うちは、兼業農家で、牛を飼い、サトウキビ畑をやっていた。
あの時はサトウキビの皮?を剥くのが本当にイヤでイヤで、「絶対農家の嫁にはならない!!」と誓ったのだった。
結局今は自分たちで野菜や米を育てようと、田畑をやっているわけだけど、私のポジションはあくまで補佐にしてる笑
「旦那と共に田畑やってます!」という感じでもなく、人手不足ならやりますよってスタンス笑
私はあくまでもお手伝い。
小さい頃学校の帰り道、道端に咲いてる花や草や実を食べながら、これは食べられるかな?と自分の体で試していたものだ。
だからその時の草や実や花が何の名前なのかも分からない、でも、感覚でこれイケルなと本能で食べていたのをここ最近思い出した。
春になると草花が、鳥が、カエルが、ヘビが、元気いっぱい顔を出す。
寒々としていた風景も、どんどん緑が増えてきた。
家の花も綺麗に咲き始め、こんなの植えていたんだ!と今になって知る(うちは古民家を購入してます)
ついつい、緑の葉を見ると「これって食べられるかな?」昔の記憶が蘇る。
私は山菜や野草が無知なため、せっかくなら今を、旬を味わいたく、数年前に購入したサバイバル読本と、ネットで野草を調べ始めた。
今は便利なもので、本がなくとも、
Googleのカメラで検索できるから、気になる葉っぱあれば、調べたり。
昨日、田んぼにセリらしきものが生えてたからパクッと口に入れたら旦那がギョッとしていた。
ほどよく苦味があって美味しかったけど、でも生より湯通ししたい感じの野草だった。
私にとってうちの周りにある草や花が「宝」にみえる。
雑草として生えているものが、食用になるとしたら?
普通に畦道や、家の周り、小川付近を草刈りして刈っていたものが、実は食べられるものだとしたら?
野草が薬草になるとしたら?
家の周りにはたくさんの宝があるじゃん!!!
と雑草が貴重な宝にしか見えなくなった。
改めて豊かだなと感じる。
昔、我が子をできない、ダメな子、もっとこうさせなきゃと必死だった時、私は「無い」ものに目がいっていて、相手の(我が子)良い部分が見えていなかった。
「無い」を探したら無いし、
「ある」を探したらある。
どこにフォーカスするかで視える世界が変わる。
何も大きなことじゃなくてもいい、
1つでも「ある」が見つかると次々にあれも、これも、と「ある」が見つかる。
うちの子は元気な挨拶を未だにしないんだけど笑、昔は近所の人に元気な挨拶をしなさい、ちゃんと返事しなさい、何か言われたらちゃんと答えなさい、ちゃんとしなさい、
やらない我が子にどうにかさせなきゃと必死、でも反発、そして喧嘩ばかりだった。
今でもたまに、「大丈夫か?」と心配になることもあるけど、
でも今はこんなところが我が子の自慢ですと言えるくらい「素晴らしい生まれ持った才能」に気づくことができた。
旦那のことも、親、友達のことも同じく、
1つでも、ちょっとでもイヤなところを見ると
脳みそはイヤなところを探し始める。
相手の「ダメなところ、イヤなところ」を探し始めて「やっぱりこいつはダメだ」とか「やっぱりこいつ嫌い」になってしまう。
まずはそう思った自分に、
「本当に?」と疑ってみるのもいいかもしれない。
「本当にイヤ?」
「本当に嫌い?」
何度も何度も自分に問いかける。
自分の本音が見えるまで何度も何度も聞いてみる。
そしたら、「いや、そこまでじゃないかも」とか「でも少しだけいいところあるかも」「そういえばこんなことやってくれた」など、
具体的にどんなところがイヤじゃないのか、
どんなところが良いところなのか、
どんなことをしてもらったのか?
自分に聞いていくと、
「あっ、良いところあるじゃん」と少しずつ意識が変わり始める。
そしたら、きっと、そういえば、、、と
相手の良いところがどんどん見えてくる。
意識の使い方って本当面白い。
そして自分では気づきにくくて、誰かに言われてはじめて「はっ!そういえば」と
見えなかった部分が見えてくる。
その気づきを与えてくれる人っていうのは、
フラットに物事を見られる人であることが大事なんだと思う。
そしていかに高い視点から、抽象的な視点であることも大事だと思う。
だから私自身、フラットで且つ抽象的な視点でいるために常に高い意識で生活しようと心がけているし、常にどんな自分でありたいか、どんな人生を送りたいかを意識し続ける。
春の今しか採れない野草を摘みながら、味わいつくしてまた来年を楽しみにしようと思う。
今夜は野草天ぷらだ!!
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