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愛と恐れのあいだで

悲惨な結末に何の意味があるのか。幸福は似たり寄ったりで不幸は多種多様であるというようなことを東欧の古い作家が言っていたような気がする。後者は取りうる描写が豊富でネタに困らないからだけではあるまい。恐れという不幸が物語としてまとめて映し出されるのを視ることは自分と出会い直すのに似ている。書いている人間は尚更だろう。

愛が極まることも恐れに溺死することも多数の人間はそうそう実体験できるものではない。激情の破片は変わりなく流れゆく日常の地面の下に塗り込められていく。埋められたそのような感情と呼応するものを完結した物語の中に見出したとき人は手に取り惹きつけられていく。分析や啓発の言葉では語りうることができないものがある。

あるいは、宗教。私は特定した信心を持たないのであまりよくわからないが、恐れに対抗しうるものとして何を信じるかというのは有効な自問設定のひとつではないだろうか。人間の知見を超えた「神」を置くことで愛への意志を補強する。しかし物語においては「神」もまた恐れの向こう側へしばしば追いやられる。どこで救いを寸断しようとも書き手の自由なのである。

愛と恐れの間を行ったり来たりするのが人間なのかもしれない。恐れの割合が多すぎて飲み込まれたり、あと僅かなところで愛の幸運が絶たれたり、理想を持ちながら骨がらみの虚無感から逃れることができない様が宿命として描かれるのを好んで読むのは恐れに支配された行く末を「もうひとつの人生」として追体験するためであろう。

実体験をもとにした創作もこの世には多数存在するが、独立した物語に仕立てる以上、本人が耳にし目に見た体験そのままとはいかない。他人にあたかもそう思わせた時点で真実とは別の「嘘」が混じっている。受け手は当人ではないのだから、当時の体感を描写するには真実を新たな言葉で縁取ることを欠くことはできない。

フィクションだからこそ必要とされるのが物語ではなかろうか。