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ぼくが僕になるまで(少年期②)

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協定その二:学校にはちゃんと行くし、授業もちゃんと受ける。

「これ全部読んだ?」
甲野さんはキーボードを叩いていた手を止める。椅子を半回転させ、肘を支えに本棚を見やる。今一度点検するように眉を上げ、「読んだやつもあれば読んでいないやつもある。そこにあるのはざっと五百ぐらいだな。それ以外には押入れに二千ぐらいある」そう言うと、甲野さんは机から肘を離し、椅子を逆方向に半回転させ、また元の位置へと戻っていった。徐々に姿勢をゆるめ身体を後ろへと倒していく。頭が湾曲したクッションに沈み込み、そこでしっかりとホールドされる。その姿勢のまま手を顎の下へ持っていく。指で喉仏をつまむ。つまめているのはほとんどが皮。肌色の皮。


 しばらくしてから甲野さんは椅子から立ち上がる。パソコンを閉じ、ぼくの横へとやって来た。ぼくの横で、ぼくと同じように本棚を見る。目の前にある本棚には、全ての段に本がぎっしりと詰め込まれている。「この本棚に出してあるのはお気に入りのやつと、いつかは読まなけりゃなと思っているやつだ」と甲野さん。「あとは最近買ってまだ間もない新人君だ。これも俺の好きな本のうちの一つだ」甲野さんは目を細める。手を伸ばし、一番上の段から一冊の本を抜き取る。
下から甲野さんの手の中にある本をぼくは見上げる。ドストエフスキー。『つみと・・・』。
甲野さんは初めて気づいたかのように本を一旦閉じる。題名を確認し、片方の手をぼくの肩へと置く。手は重く、片手一つで肩全体が包まれる。「『罪と罰』」


 ぼくは甲野さんから本を受け取り、両方の手で支えて表紙をめくった。「帝政ロシア、今のロシアの作家だな」と甲野さん。表紙の裏にはこの本を書いた作者の紹介文があった。ドストエフスキー[1821~1881]十九世紀ロシア文学を代表する世界的巨匠。
「どうだ?」甲野さんが上から覗き込んできた。
「このハゲ、けっこう書いたんだな」


 甲野さんはニッと笑う。「そのハゲは、ハゲのなかでも特に優秀なハゲだ。数多くの偉大な作品を後世に残している。俗に、五大長編と言われるやつだな。お前の取った作品より俺は『カラマーゾフの兄弟』の方が好きだが、『罪と罰』も好きな部類に入る。いや、とても好きな作品と言っていいな」


 ぼくがページをめくっていると、「『罪と罰』では、若い男が老婆を殺して彼女が持っていた金を盗むのさ」と甲野さん。「彼はこう考えた。老婆から盗んできたその金を貧しい人に配ってやれば、老婆が一人で蓄えて持っているよりもよいのではないのかって」
「極端だ」
「極端だからこそ面白い」と、ぼそぼそっと呟いたぼくの感想を甲野さんは拾い上げる。「中途半端なことを書いても誰かの二番煎じになるだけだ」
「そんな話読んだことない。教科書に載っているのは善人と悪人の話だけだ」 


 甲野さんはぼくの肩から手を離し、「まあ他のやつも見てやってくれ」と言い残すと、壁に寄せてある机に戻っていった。椅子に腰を下ろし、パソコンを開ける。


 『罪と罰』を棚の上に戻したあと、本棚にある蔵書のいくつかを手に取って調べてみた。ヘミングウェイ、サリンジャー、フォークナー。ヴァージニア・ウルフ、ディケンズ、ジョージ・エリオット。「みんな死んでる」
振り返ると、甲野さんはパソコンに視線を向けて椅子にそっくり返って唸っていた。ぼくは視線を前に戻し、本棚に眠る昔の作家たちの発掘作業に戻った。バルザック。ゾラ。スタンダール。マラルメ。ジッド。「その本棚にあるほとんどの作家は既に死んでいる」としばらくして甲野さん。「まっ、お気に入りの作家が多いから仕方ない」組んでいた腕をほどき、パソコンの横に置いてあったマグカップに手を伸ばす。コーヒーを一口すする。「お前、映画はよく見るか?」甲野さんはキーボードから手を離す。椅子を二十度くらい回転させ、ぼくの方を見た。


 ぼくが肩をすくめると、甲野さんは何かを思案するかのようにテーブルを指で叩きはじめた。椅子を回転させ、元の位置に戻る。
「最近の作家は?」とぼくは口にする。「気に入らなかったわけ?」


 甲野さんはすぐにはぼくの質問に答えてくれない。全く違うことを考えているように、テーブルに指をぴたりと寄せつけパソコンの画面をじっと見ている。しばらくしてから、「そういうわけじゃあない」と甲野さん。「現代の作家でもいい作品は出している。現代の作家には、先人が耕してきた豊かな土壌があるからな」甲野さんは背もたれから背中を離す。椅子から身体を持ち上げ、背もたれに頼らない前屈みの姿勢を変える。組み合わせた両手に顎を乗せる。「だが当たりの確率でいうと、そう話は簡単ではない。本屋に行くとわかるが、棚の上に売り切れ必死のお土産のようにうず高く平積みにされていたり、棚にひしめき合うように差し込まれている本がある。わんさかあるあの本の中から適当に一冊手渡されたとしたら、恐怖で縮上がっちまうね」
「なんで?別によくないか?」思わず声が大きくなってしまった。
甲野さんは組み合わせていた手を解き、開いた膝の間に置いた。そこでも手を段になるように組み合わせる。「それは大体の本が読むに値しない本だからだ。それを読むぐらいなら他に何か別のことをした方がいい。ぐうたらソファで寝ていた方がまだマシだ」
「それで最近の本は読まないわけだ」
「いやそれは間違っている。俺だって最近の作家の本も読む。最近の作家でも面白いことをしている奴もいるからな。ただ全体の傾向に論点を置いて俺は話しているだけだ」甲野さんは首を左右にゆっくりと傾け、反対の手で片方ずつ手を包んだ。首からは音は聞こえなかった。けれど手からは、ポキポキと小気味いい音が鳴り響く。「最近は本が増えすぎている。考えてもみろ。何千何万という本が埋まっている本屋に、毎年何百何千と新刊が担ぎ込まれてくるんだ。既に空いたスペースもない本屋にだぞ。無名の新人を入れるスペースを確保するためには、用済みの古参を取り除ける必要があるんだ」
「もったいない」
「書店には痛くもかゆくもない。売れ残った本は出版社に送りつければいいだけだからな」


 ぼくは眉をしかめて甲野さんを見る。甲野さんの眉はぼくと逆の動きを見せる。
「そのシステムにはいいところもあるし、悪いところもある。選択肢が増えるのはいいこともかもしれないが、どれを選べばいいのかわからなくなる。それに何といっても無駄な本が多すぎる」甲野さんは顎をがりがりと無造作に掻く。マウスを動かし、任意の場所でクリックする。立ち上がり、パソコンの電源を落とすと、ぼくのいる本棚まで近寄ってきた。ぼくの横に来て、隣で視線を左右へと行き渡らせた。一番上の段が終わると、その下の段に移る。「その競争社会の中で、読むべき本を見つけるためにはどうすればいいと思う?」


 ぼくは肩をすくめる。
「なんでもいい。答えてみろ」
唾を飲み込む。苦く、すっぱい味がした。「消えないで、ずっと残っている本?」
「ご名答」甲野さんは視線を本棚にやったまま、ぼくの頭に手を置く。髪を混ぜこぜにする。「ストラディバリウスのように、何年経ってもなお消え去ることなくその価値を保持している作品だ。価値があるからこそずっとそこにある」
「その中でも取り分け翻訳本が多いのはどうしてなんだ?」
甲野さんは使っていない反対の手を本棚へと伸ばす。「お前だって中国料理やフランス料理を食べたりするだろ。いつも味付けが醤油と味醂と酒だけの煮物ばっかり食ってるわけじゃないだろ。できれば洋を取り入れたいし、辛い物だって食べたい。それと同じで日本にも面白いのはあるが、別の違った面白さ、もっと面白いことをやっているやつらが世界にはわんさかいるんだ。それを逃さない手はない。なにしろ規模が何倍もあるからな。選り取り見取りってわけだ。まあ風土が違うから少しとっつきにくさがあるかもしれんが、そこさえ潜り抜けたら病みつきになる」甲野さんは本棚から一冊取り出すと、横に立つぼくに手渡した。ディケンズ。『クリスマス・キャロル』。「まっ、手始めにこれを読んでみろ。毛嫌いせずにな。俺が話すよりも読んだ方が何十倍も面白い」渡された本をぼくはバックの底に隠して家に持って帰った。

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