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THE IDEA OF THE BRAIN- A HISTORY を読みながらコロナ危機の今に思うこと

ある道の権威が語った話を、誰もが自明のものとして疑いなく信じる。そしてその考えを基に様々な思考が積み重ねられ、千年紀に亘って人々の思考の基盤となる。しかし、そもそもそのような話を権威本人は語ったのだろうか。前回紹介したように、人類は長い間、人の思考や感覚は脳からではなく、「アリストテレス曰く」心臓から来るものだと信じてきたが、このような誤解をもたらした張本人は、学術界往年の権威アリストテレスではなく、実は日本では全く無名のハリー・アッバスというイスラム世界の医学者ではないかと思われる。

アッバスは当時主流だったアリストテレスの心臓説に依拠しつつ、動物実験を通じ感覚を司る神経は心臓ではなく脳から来ていることを証明したガレノスの考えも取り入れ、「心臓でつくられた精神(Animal Spirit)が脳に運ばれ、脳の空洞に貯めておかれる」という継ぎ接ぎの考えを、ギリシャ・ローマの知的遺産からの翻訳という形で紹介。その後、正当な考えとして1,000年以上もの間で欧州に定着することになった。

同じような事例は、幸福や恐れのような感情は動物に生来備わっているものであり、生物進化の過程で感情も複雑に進化してきたという、今でも一部信じられている考え方にも見られる。この考えを提唱したのはかの有名なダーウィンであり、虫にさえも怒り、恐怖、嫉妬そして愛の感情があると主張した。その後、ウィリアム・ジェームスという米国心理学の権威も、ダーウィンと同様に、個々の感情は人間に生来備わっていると主張したと言われているが、実はそうではないとバレット(米国の心理学者)がその著書で指摘している。


バレット曰く、ジョン・デューイという、同じく米国の有名な心理学者が、ジェームスの、"Each instance of emotion comes from a unique bodily state."、即ち感情の発露はその時々の身体の状態に由来する、という意味の記述を、各感情(怒り・恐れ・幸福等)は身体に元より個々に備わっているという形で読み替え、いわばダーウィンとジェームスの考え方を継ぎ接ぎした主張を、あたかも心理学の泰斗ジェームスの考え方かの如く提唱したとのこと。これ以降現在に至るまで、脳科学者や心理学者が人間の感情の大元を探るべく様々な研究を行ってきたものの、未だに感情の大元なるものは見つかっていない。今後も見つからないかもしれない。そもそもの考え方が根本的に間違っている可能性が高いからだ。

このように、科学がそうでないということを証明するまでは、人は権威を無条件に信じ、それを前提におきながら誤った方向で研究を進め、膨大な資源と時間を無駄に費やす愚を犯すことがある。今、コロナ危機を迎える中、同様に権威に依った根拠の無い言説が我々を惑わすようなことが度々あるかもしれないが、そういう時こそ、誰が何を根拠にそう言っているのか、それを裏付けるサイエンスはなんであるのか、常に目を光らせておく必要があるだろう。

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