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デス・レター(PV公開と大衆音楽の真実)

先般、演奏が終わってタバコを点けていたら、お客さんの1人が「(→は)ジコマンでやってますよねぇ?」と質問を受けた。
俺は彼と一面識もないので彼についてどうこう言えない。だが、この「質問のあり方」は、大っ嫌いだ。
①下品である
面識のないものに向かって自己満足の「ゾク」さえ、略さず言えんのか?俺を友達と同じように喋るな。
②ジコマン(+ゾクだとして(笑)のはっきりとした意味、定義をなんら提示しない。
③俺の答えを待って自説を展開しようとする姿勢がありありである。
よしんば俺がなんらか答えたとしても、それをイーカゲンな自説に持って行こうとするな。

④俺の答がyes/noの2択であることを誘導しようとしている。
常に第3の選択肢、あさっての方向を模索する→にとって、この誘導は無駄である。

などということを俺は頭に巡らせつつ、彼に

「その質問は考えたことなかったなぁ(テヘペロ)」

と言った。

さて、普段あんまり批判を口にしない俺がなぜ、これを言ったかというと、この「ジコマンでしょ?」の人のアティチュードこそ、日本のインディーズのロッカーの(音楽性を含めた)マジョリティのアティチュードそのものだからだ。 

昨日俺は、インドネシアから来たパンクバンド(1人プロジェクトか?)、the Battlebeats @thebattlebeats を見た。素晴らしかった。彼のXを見ると、どうもSystem of  a Downが好きそうだった。なるほど。彼らのユーモアとポップでシンプルな佇まいが、ちゃーんと自分の音楽に活かされている。だが、この俺が感心したのはそこではない。
インドネシアは所謂「ワールドミュージック」の宝庫だ。ダンドゥット、クルンクン、ガムラン…どれも魅惑である。ということにかまけてインドネシアを外側から見る時、我々は、彼の国のミュージシャンはそれら「ワールドミュージック」の影響がどこかにあるんだろう、と穿った見方をし、インドネシア人は、ロックが(実際にも)マイナーなジャンルであることに肩身を狭くする(実際彼もそう言っていた)
だが、当然だが、彼は自分の音楽にインドネシア的、ワールドミュージック的要素を一切入れていない。そうして毅然としている。しかも結構はシンプルなリフのみで、である。

音楽評論家界の巨人、中村とうようの弱点は、ロックが、西側諸国の大衆音楽であるとしても、アジアを代表とする、非西側諸国のロックを、ダンドゥットと同じく大衆音楽として認めきれなかったことにある。当然だろう。中村の夢想しえなかった大衆とは、今でいえばズバリ、BTSのファンだからだ。そして、その大衆は、「ジコマンでやってるんでしょ?」と俺に質問した方をも含んでいるのである。

すると、その「ジコマンでしょ?」の人とthe Battkebeatsをくっきりと峻別するのは、覚悟と主体性の有無、という以外にない。大衆などという概念など、あってないようなもんである。覚悟があるか、ないか。主体性があるか、周囲に棹さして生きるか。つまり、毅然とした人か、周りに同調するか、となって話は突如、同調圧力に連結するのである。

大衆など、ありはしない。そう言い切る俺は無論前者である、否、前者でありたい。そうであるから、俺は所謂左翼の欺瞞性を嫌う。大衆というご都合主義的な言葉を用意し、「俺の後ろには大衆という味方がいる」と嘯いて、同調圧力を産んだからである。岸田の政治は悪政だと、俺も思う。だが、このその悪政を生んだのは、他ならぬ左翼知識人たちなのだ。

その左翼的心象がいまだ蔓延る日本のロックは、世界に太刀打ちさえできていない。

だが。

5月末にひとつ。日本のロックがもしかしたら、西側に一太刀浴びせられるかもしれない、そんな作品が、生まれる。

となって話は俄然、→(yajirushi)のニューアルバム発売という、我田引水に落ち着くのだった(笑)

*Yajirushi 3rd album “Brought Back Without Souvenirs”は5/29発売!ディスクユニオンおよびアーティストダイレクトで販売されます。


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