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英語が大っ嫌いだった私へ。

アメリカ映画を字幕なしで観てみたかったし、英語でペラペラプレゼンしてドヤ顔してみたかったし、電車で洋書を読める人になりたかった。

多くの日本人が一度は何らかの形で抱くであろう、「英語への憧れ」。そして、これまた多くの人が経験するであろう「英語学習の挫折」。

かくいう私も、「英語挫折組」。

平凡な才能で平凡な努力しかできない私には、「外国語を学んだ先に見える世界」や、そもそも「私にとって言語とは?」を考える時間が足りなかったと思う。平凡な努力を継続させるには、エネルギーや強烈な動機が必要なのだ。

まさに、そんな当時の私に、伝えたいと思う言葉と出会った。

中国人には「南っぽいね」とからかわれ、台湾人には「日本人っぽいよ」と笑われ、中国語が堪能な日本人には「でたらめだなあ」と苦笑される自分の中国語を、わたしはとても自慢に思っている。なぜならわたしの中国語には、台湾で生まれて日本で育った自分の時間が刻まれていると思うから。私に限ったことではないだろう。言葉とは、もともとそういうものなのだ。

台湾で生まれ台湾人の両親を持ちながら、自身は日本で育ち母国語が「日本語」である温さんの言葉。

「言葉とは、育った自分の時間が刻まれているものなのだ。」

多分、当時の私に足りなかった考え方はこれだ。

英語が嫌いになった当時私が目指していた英語は、

帰国子女やネイティブの友人たちや、授業で扱うオバマ大統領のスピーチのような洗練されていて流暢な英語。(「英語、かっこいいじゃん!」と、英語に力を入れている高校に入学したのです。はい、ミーハー中学生でした)

そんな、美しい英語でないと「使えないし恥ずかしい」と思っていた。そしてハードルが高すぎるので、挫折。「英語無理!」のレッテルを貼ることとなる。

でも、今なら思う。私は、私の英語を話せば良かったんだ、と。温さんが、自分の中国語を自慢に思うように。「私の英語は、長年日本で生きてきた時が刻まれた英語」でもあるのだ。同時に、長年の時が刻まれた洗練された英語を一朝一夕に習得にしようと思っても無理な話なのである。

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結局、残念ながら英語はあまり得意になれなかったのだが

その反動か、大学の第二外国語で出会ったフランス語の魅力に取り憑かれ、早8年目。自他共に認める、「フランスオタク」となった私。

哲学の国フランスの文化も相まって、今度は「私にとって言語とは何か?」考えさせられる時間が多かった。一年以上前に、こんなnoteも書いていた。

フランスがとても好きで、何度も滞在したこともあるけれども、あんまり流暢にフランス語を話せない。でも、そこには「日本で過ごしてきた私の時間」が刻まれているから、当たり前だと気づいたのだ。

めちゃくちゃ努力できて優秀なら、日本で生まれ育ってもネイティブのようなフランス語を話せるようになるかもしれない。事実、私の周囲にはそんな人もいる。でも、私は私のペースで平凡な努力しかできない。決して開き直っているわけではないけれども、まずは「私の」フランス語を話すことが大事なのだ、という思考に行き着いてから、語学学習が面白くなった。

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言語は、自分の思考をつくる材料。その材料は、生まれ育った環境とか文化、見聞きしたもの、関わってきた人によって日々形を変える。

実は、「完璧な日本語」というものは存在せず、私たちはそれぞれ「自分の」日本語を話しているのだ。

そのことを噛み締めれば、私は一生、自分の持つ言語を磨き続けられるだろうか?平凡な努力でも。





読んでいただきありがとうございました😊 素敵な一日になりますように!