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大学・文系学部・哲学等の不要論を語る前に確認するべきこと〜ねぎ玉牛丼を食べながら〜

唐突だが、自分は牛丼屋の中では断然「すき家」派だ。ねぎ玉牛丼の大盛りに、トッピングで単品のキムチを注文することがデフォルトである。牛肉の甘辛く濃厚な味に、ねぎの苦味と生卵のまろやかさ、キムチの辛味が加わり、その総合的な味の複雑さは形容詞しがたい美味さとなる。

ところで、先日この至福の時間に「大学の不要論」のことを少し考えていた。巷には、大学はもはや行く必要ないという人もいれば、文系学部は廃止すべきという考えの人もいるし、哲学は訳に立たないと言いきる人もいる。

ここで、大学の文系学部を卒業し、哲学を学んだ「the 訳に立たない of 訳に立たない」の身として、この議題について少し考えたい。

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みなさんは上の写真を見て、これは「役に立つか?」と聞かれたらどう判断するだろうか。大胆にも「大学は不要か?」という議題は、おおよそこれと大差ないように思われる。

知らなければ判断できない

まずここで言いたいことは、上の写真の道具が、「何であるか」を正確に知らないことには話が始まらないという点だ。これはこの道具に限った話ではなく、大学の存在意義や、文系学部が何を学ぶところなのか、さらには哲学の歴史など、こういったものをそもそも知らずに、必要か不要かを語ることはできないのである。

例の道具は、使い方を知っている人には非常に便利なものだ。一方で、知らない人が「それは訳に立たない!」といっても、その人にとってそれはただの歪な形の金属にしか過ぎないからである。

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ちなみにこれは「エッグセパレーター」というかっこいい名称を持つ道具で、生卵の黄身と白身を簡単に分けることができる代物だ。

こんな上手い使い方を知らずに、そのものが訳に立たないという発言はできないはずだ。(大学でただぼーっと受動的に授業を受けているだけの人間に、その存在意義が分かるだろうか。)

必要かは目的による

次に押さえておかねばならないことは、「目的とセットで考える」ということだ。上のエッグセパレーターは、生卵の黄身と白身を分離するという点で役に立つものだと分かった。

ところで、もし自分がねぎ玉牛丼ではなく「とろ〜り3種のチーズ牛丼」を食べていたらどうだろう。この場合、生卵はそもそも含まれていないためエッグセパレーターは不要だ、と言い切れるだろう。同様に、ねぎ玉牛丼を食べていても生卵を分離したいと思わなかったら、これは完全に必要ない。

つまり、「エッグセパレーターの役割を知り、ねぎ玉牛丼を食べていて、かつ、生卵を黄身と白身に分離したい」という目的がそろった上で初めて、役に立つかどうかを判断すれば良いのだ。

知って目的を考える

上記は単なる例に過ぎないのだが、「人生」という「牛丼屋さん」には、自分が思った以上に多様な人間がいるものだ。牛丼屋なのに、もはやカレーも注文することができるのだから。

だから、たとえ自分はねぎ玉牛丼を食べていたとしても、目の前の人もそうだとは限らないし、同じように、たとえ隣の人が「訳に立たない」と声高に言っていても、それを鵜呑みにする必要はない。

大学に行って勉学に励みたい人もいれば、就職に役立てたい人もいるし、とりあえずモラトリアムを過ごしたい人もいる。その先についても同様で、金持ちになりたい人もいれば、有名になりたい人、一生学問ができる環境に身を置きたい人がいる。

これは、誰もがすぐに判定できるような議題ではないのだ。

だから、大切なことは自分の頭で考えて、相談するならば信頼できる人の話を聞くと良い。周囲から聞こえてくる主張に動揺する必要はないのだ。

ましてや、自分が「とろ〜り3種のチーズ牛丼」などのエッグセパレーターは必要ない商品を食べているからといって、周囲みんなに「エッグセパレーターは役に立たない!不要だ!」などと訴えかけることは、人間のマナーにすら反することではないだろうか?

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