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哲学の意義。自分の思考枠組みを脱して、他者を理解することができる

今回も前回と同様に、哲学を学ぶ意義について。

自分の中で、シャトルランのように「哲学って生きる上ですごい重要だよな」と感じるフェーズと、「哲学とか本当にクソだな」というフェーズを行ったり来たりしながらここ6、7年を過ごしている。今は完全に後者のフェーズなので、改めて哲学を学ぶ意義を自分で整理しておきたい。

他者を理解する

今回の結論は、哲学は他者を理解する上でものすごく意義深いものだということである。

もっと噛み砕いて言うと、デカルトやカントやヘーゲルの思想を死ぬ気で理解しようとしたんだから、自分の身の回りにいる他者についても理解に努められるはずだし、その方法を得たに違いない、ということだ。

そして、パートナーだろうが親友だろうが家族だろうが仕事仲間だろうが、他者とうまくやっていくことは人生の豊かさにつながるのは間違いないハズ、これが今回の結論である。

順番に見ていこう。

他者との関わり

われわれは、社会的な生き物であることは疑えない。ゆえに、他者との関わりを持ちながら競争したり、共創したりしながら暮らしている。他者の存在が生きるうえでエッセンシャルな事柄である以上、われわれはこれを抜きに人の幸福を語れない。

もし、この他者との関わりという点において、哲学が有意義だという主張をしたら違和感があるだろうか。

哲学は、論理をこねくり回して論破芸に使われるもの、というイメージのままだと誤解を与えるかもしれない。しかし自分にとって論理とは、他者に寄り添うためのツールなのだ。

どのようにして学び、それを生かすべきかを含めて書いていこう。

多様性の時代

人間は、他者とともに生活していくことが必須であるということは上で見た。ところで、この「他者」についてでいうと、現代はまさに多様性の時代だとよく言われる。

これはつまるところ、多様な価値観が乱立する時代だということだ。

例を挙げると、身の回りにもヴィーガン、イスラム教徒、同性愛者、フェミニスト、在日外国人労働者など挙げればきりがないが、自分とは全く異なる文化や嗜好をバックグラウンドに持つ人たちがいるのではないだろうか。

これは、今までの時代では考えられなかったことだ。

これからは、そういった自分の経験や今までの生き方では理解できない他者と、関係を持って生きていく必要がある。

他者を理解しようとする姿勢

そんな時代に最も大事なことは、他者を理解しようとする姿勢である。

ヴィーガンの人に「肉おいしいのにもったいない」と言ったり、イスラム教徒に「お祈りして意味あるの?」と言ったり、同性愛者に「わたしのことは狙わないでね」と言ったり、フェミニストに「ヒール履いたらスタイルよく見えるじゃん」と言ったり、外国人労働者に「日本人は勤勉だからね」と言ったり。

もしこんな理解のない発言をしたら、本当に相手を傷つけてしまうことだ。

決して他者は理解はできないけれど(理解できないことを理解しておくことは重要)、できるだけ相手の視点に立って理解しようと努める姿勢が重要なのだ。

マルブランシュという哲学者

話は急に変わるが、自分はマルブランシュという哲学者と一番長く向き合ってきた。彼の主張の決め台詞は、「すべてのものを神のうちに見る」である。今自分が目にしている光景も、すべて神が働きかけてくれているということを彼は言いたかったのだ。

最初は、哲学上の難問に「神」を持ち出すことによって、すべて独断的に解決しようとしているようにしか見えなかった。しかしきちんと読み解いていくと、非常に合理的な思想体系がそこにはあったのだ。

もちろん解釈には長い年月を要したし、そもそもフランス語を身につけるところから始まったし、もちろんキリスト教への理解も必要だし、彼が生きた17世紀の時代背景を知る必要もある。

とてもじゃないけど、今まで自分が経験したことから得た思考枠組みでは、到底理解できないものだ。しかしその「理解できない」考えに対して、自分のモノサシを当てはめようと無理やり押し付けたり、当てはまらないからといって思考を放棄したりすべきではない。

できるだけ相手の視点に立って理解しようとする姿勢こそが大事なのだ。

そのエッセンスを学べる哲学が、役に立たないなんてことあるのだろうか。




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