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3.11に思うこと〜奇跡の一本松を訪れて〜

※2020年3月7日に陸前高田に往訪

日暮れとともに町は暗くなり、街灯は1つもつかない。私の部屋に家族5人集まって肩寄せ合った眠りについたあの夜は、今でもしっかり覚えているのは不思議である。

当時、山形に住んでいた私は中学三年生で、ホームルームの前に友達と談笑していたその時に、強い縦揺れを感じた。その後の、しばらく続く長い横揺れ。初めて経験した大きな揺れに、私含め教室のみんなが恐怖でいっぱいになっていた。

揺れが収まったところで、強制的に全校生徒下校。帰路の車庫が倒壊していた。

家に着くと、自営業を営む我が家の事務所で、仕事をやめ、石油ストーブで暖をとっている父と母。私は日常が非日常になってしまったと、衝撃を受けたのを覚えている。

テレビも見れなくて、トイレの水も流れなくて、聞こえるのはラジオの音だけ。あたりはすぐ暗くなった。

あくる日の新聞で、事の重大さを知る。自分も巻き込まれたこの災害は、隣の県で、甚大な被害を及ぼしていた。津波が、海が、人家を飲み込む写真が一面に掲載されていた。

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私の地元は少しずつライフラインが回復し、季節外れの雪が降りしきる中、なんとか卒業式も執り行う事が出来た。

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それから、いつの間にか9年の月日が経ってしまったようだ。

私は、社会人一年目。東京の会社に就職した。仙台にいる同期とこの度、陸前高田市の「奇跡の一本松」を見に行くことに。

自分も巻き込まれたこの災害であるのに、隣の県であるのに、その被害の大きさを知ろうと赴くことはこれまでなかったのである。

陸前高田が近づくにつれて、更地が広がっていく。更地には、ヨークタウンなど新設された建物が散見された。9年の月日は、どれほどのことを癒し、立て直してくれたのだろう。

「奇跡の一本松」のある高田松原津波復興祈念公園内にある。

献花台に向かう道は、だだっ広く、白く、木々が点々として、まるで聖域へと導かれるようだった。階段を登り、眺望できるのは広田湾。かつては海水浴で賑わっていたと、訪れた方の声を小耳に挟んだ。今は静かに波の音が響いていた。

一本松はそこから少し離れたところにある。周りには、流木が、背後には、倒壊したその瞬間を焼き付けたままの建物が現存している。虚空を貫く一本松に、逞しさを感じた。と同時に胸が熱くなり、込み上げるものがあった。

公園を後にするとき、車窓から見える広田湾がとても美しかった。山々に囲まれた入江は、濃い緑と深い青。都会に来て一層思うのは、自然は本当にパワーをくれる。一方で、自然の脅威が存在するのも、ふとした瞬間に思い出してしまう。あの地震を経験してから、震度6以上の知らせが家族の住む土地に発表されると、正直震えが止まらなかったりする。

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私のいる会社では、復興事業にも力を入れている。東北六魂祭を始め、インバウンドアウトバウンドなど、近年は本当に大きくなっていた領域だ。そしてこれからも盛り上げていかねばならない。

その最中に襲ってきたこの状況は、ある種の試練である。観光業で復興してきた街にとって大きなダメージがあることは計り知れない。今微力な私が何ができるか。

誰しも自分のことしか考えることがない、過去のことは風化してしまうこの世の中・状況に、人々に振り向いてもらう、振り返る「きっかけ」を作れるのが、「広告」の力でもあると思う。また、事実を伝えるのは「報道(書く)」の力だ。

今すぐ何ができるとも言えないけれども、今「広告」という仕事と「書く」ということで、立ち直るべく猛進してきた人たちの努力を決して絶やさないように、人々に訴えかけ心を動かしていきたいと、強く思うのである。

その1つとして、この記事が少しでもその役割を果たせたら良いと思う。

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