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本日の本請け(2023.11月後半)

本に合うものを用意して読書する。11月前半はこちら

『校閲至極』毎日新聞校閲センター(毎日新聞出版)

サンデー毎日連載のコラムを書籍化したもの。新聞の校閲に関してのいろいろ。「恐悦至極」をもじったタイトルでやられてしまって購入を決めました。
中表紙の紙がつるっとしていて、とっても素敵でした。

プリンが食べたい!という日でした

コラムなので、ひとつひとつが短く、今日は本読むの面倒という日もひとつだけ読もうかな?とかができて楽しかった!

ただ、コラム故に文字数制限があるからなのか、よく読めば意味がわかるんだけどもう少し説明がほしい……という場面もしばしばありました。
うん?いつの間にかさっきまでのことと別の話してる?という。私があまり新聞を読み慣れてないから、「この文字数の中に全部入れたい」という文章に馴染みがないからかもしれない。

間違えてしまうと、翌日に「お詫び」を出さなければいけない、それが恐い。タイトルで「校閲」と「恐悦」をもじるのも「恐れ」から来ている、というあとがきにほーう?と思いました。正直、「間違えました」って次の日言えばいいじゃん、そんなに?って思ってしまったからです。だって、今日び、ネットのニュース見ていると誤字脱字意味が通っていない文章、たくさんお目にかかるので。

けれど、間違えていてもあっという間にネット広がってしまう例も語られていたため、空恐ろしくなりました。「ロシア「本土」とクリミア半島」で語られた、戦争に関する記述にかなり神経を使っている話もあっただけに余計にそう思います。
ネットでニュース見ていてもすぐに訂正記事が上がっていて、そのスピード感はすごいなと思うけれど、ぱっと見出し語を読んで中身さっと読んで理解した気になる恐ろしさもひしひし。何事も、自分で判断するために、本当に?って疑う心を持たなければならない。
校閲をする機会なんてなかなかないけれど、だからと言って読む側だって無関心でいていいわけではないのかも。

先月、『セミコロン』を読んだときに言葉のルールって一体なんなんだろう、と思ったのですが、言葉を正しく使うマインドというのは持ちつつ、他人の間違いに気がついたときには「本当は何をどう言いたかったのか」を一緒に考えられるといいのかな。頭ごなしに「間違ってやんのー」とかじゃなくて。

かなり浸透してしまっているら抜き言葉を直すか直さないかなど、とても興味深かった。
校正に必要な漢字、言葉の知識だけでなく、本当にあらゆることに精通していないといけなくてくらくらしてしまいました。「昴」の話での新しいジャイアンの声優の話など、本当に世代を問わずありとあらゆる知識が必要なんだと実感。脱帽。

記者さんによって記事に個性があって面白かった!
方言をどこまで治すかの「姉ちゃん 俺は歌っとうで」と、記者さんの珍しい名前のエピソードが印象的な「「ばえ」の流行 気軽にシェア」が好きでした。

校閲をしなくても校閲のマインドを持つ、というのがこれから、必要とされるのかも。

『火星の人 下』アンディー・ウィアー(早川書房)

先月上を読み終わり、下巻へ。

火星コーヒーとじゃがいもが出てくるので

ハラハラしながら読み始めた下巻。

結末は予想がつきつつ最後までハラハラしつつ、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』で「この作品、とても良い!」と感じた部分が『火星の人』でもあって、ラストは心臓がぐっとなりました。

ただやっぱり専門用語(ローバーとか)が具体的によくわからないままに気になって駆け足で読み終わってしまったので、映画を見ることにしました。

ワトニーのお茶目なところ、ジョークが好きなところが出ていてとてもよかった!
じゃがいもを育てているところ、扉が吹っ飛んでしまうところ、補給のロケットの中身がシェイクされてしまうところ、どうやって他の宇宙飛行士が助けに行ったのか、見ていて想像が補完されてすごかった!

ただ、映画のラストのメッセージは「あきらめず考えること」のように受け取れるなと。原作本で込められたメッセージは、以下の引用部分が象徴しているかなと思います。

うん、オーケイ。ぼくはその答えを知っている。一部はぼくが象徴しているもののためだろう──進歩、科学、そしてぼくらが何世紀も前から描いてきた惑星間宇宙の未来。だが、ほんとうのところは、人間はだれでも互いに助け合うのが基本であり、本能だからだと思う。そうは思えないときもあるかもしれないが、それが真実なのだ。

火星の人 下

「オデッセイ」のWikipediaを見ていたら、実際には植物にも動物にも火星の土壌は有害であると書いていてそっか、ちょっと残念、と思ったのですが。
こんな記事がありました!いずれは火星で食べ物を育てられるのかも……!?

『さみしいときは青青青青青青青 少年少女のための作品集』寺山修司(ちくま文庫)

アニメーション「輪るピングドラム」がとてつもなく好きなんですが、その監督、幾原邦彦さんが解説を書いているということで購入しました。

くまゴロンをいただきました。コーヒーカップはピングドラムの

短い物語や詩がたくさん詰まっています。
不条理なような、ちょっと不思議で不気味なようでいてコミカルで。
他ではない感じの味わいがありました。
「船の中で描いた物語」「かもめ」「宝石箱」「書物の国のアリス」「家へ帰るのがこわい」が好き。

たくさん分裂する娘とか、思い浮かべてしまった光景が忘れられない。一言一句覚えていられる記憶力はないんだけど、どこか、ねこの引っ掻き傷みたいにずっと体のどこかに残っている感じがします。

寺山修司記念館、行ってみたいな。

『この夏の星を見る』辻村深月(角川書店)

ずいぶん前に買っていたのですが、コロナ真っ只中の物語なので「完全に終わったわけじゃないしな」と思ってなんとなく乗り気になれずだらだらと読んでいました。

9月頃に第一章を読み、だらだらと第二章へ。今月に入り、読んでいるうちにどんどん乗ってきて、三分の二、一日で一気に読んでしまいました……。

大人のクリームソーダ。クリームソーダは溶ける!と慌ててしまってうまく撮れないことが多い

特設サイトもあります。

二章あたりでずっと、主人公たちの感情にリンクしてしまって常に目がうるうるで字が見えないくらいになりながら読んでいました。

コロナ禍真っ只中のお話なんですが、コロナが関係のない部分が好きでした。

例えば、真宙が高校に対してメールを出すことになる場面。ストーリーとしてはここでメールを出すことで3人の居住地が違う主要人物たちが交わっていくことになるきっかけになるんだけれど、それ以上に「俺がやるの!?」ってわたわたし出す真宙がとてもリアルだった。中1で、丁寧なメールの書き方なんてまるで知らないしやったことないし無理という主張、ちょっと言い出しただけのことがどんどん大ごとになって腰が引けちゃう様子、いやそうなるよね、と頷いてしまいました。
辻村さんってどうしてこういう細かいところの「中高生み」がわかるんだろう、取材がとても丁寧なこと以上に、注目するところが鋭いなと思う。

「コロナの年じゃなかったら、私たちは会わなかった、どっちがいいか悪いかわからないね」と言った子どもの言葉について、後にこの物語に出てくる大人のひとりが言います。

「そんなことを、子どもに選ばせなきゃいけなかったことが悔しい。コロナがあったから失われ、でも、コロナがあったから出会えたこともある。どちらがよかったのかなんて葛藤をあの子たちが持たなきゃならないことがもどかしい。本当だったら、経験は経験で、出会いは出会いのまま、何も考えずに飛び込んでいけたはずなのに、そうじゃなかったことが」

最終章 あなたに届け

本当に。

辻村深月を人に勧めるとき、あまりにも心を抉ってくる場合があるので気をつけているのですが、これは誰にでも広くおすすめできる作品だったなと思います。星が見てみたいな。

『ガザに地下鉄が走る日』岡真理(みすず書房)

お恥ずかしながら、何も知らずに購入しました。
本屋さんのSNSで最近よく見かけるなと思っていて、地下鉄を作る話なんだろう、と思ってなんとなく購入したのです。

読み始めてすぐ、あれ、前提知識まるで知らないなと思って調べました。
正直言うとニュースをきちんと追っている人間ではないのですが、それにしても知らな過ぎたと反省しました。学生の頃からさかのぼって、どこかで触れていてもおかしくないと思うのですが、これまでずっと見えていなかった、私も「無視」していたんだと。

まずNHKのまとめを見ていきました。

しかし本書を読んでいくうちに、↑のまとめはどちらの陣営にも「平等」であるように意識されて書かれているなとも感じました。

 「テロと報復の連鎖」「暴力の悪循環」といった文言が、パレスチナ・イスラエルを語る際の枕詞のように、日本のマスメディアでも繰り返された。しかし、十代、二〇代の若者が、ダイナマイトで自らの肉体を木端微塵にすることで周囲の人間を殺傷する暴力と、最新式の兵器で重武装した占領軍が、戦闘機や戦車や軍事用ブルドーザーで市街地を攻撃し、住民を殺傷し、難民キャンプを瓦礫の山にする圧倒的な暴力が、どちらも「暴力」にちがいないとはいえ、それらは果たして「同じ暴力」なのだろうか。

第四章 存在の耐えられない軽さ

 普遍的人権、人間の尊厳、人間の自由、平等、平和、そういったことがまことしやかに語られる二一世紀のこの同じ地球上で、人権も平和も自由も尊厳も、空気のように享受している者たちがいる一方で、人権も自由も尊厳もなく、日々、殺されて一顧だにされない者たちがいる。人間が虫けらのように殺されるという不条理、だが、その物理的暴力以上に、世界がその不条理を耐えがたいこととして感じていないという事実──存在の耐えられない軽さ──こそが、人間にとって致命的な暴力なのではないだろうか。
 世界は、パレスチナの占領を放置し、そうすることによってそこに生きる人々を半世紀にわたり占領の暴力のただなかに遺棄し続けることで──あるいはガザの完全封鎖を十年以上にわたり放置し、ガザの人々を「生きながらの死」と彼らが呼ぶ状態に捨て置くことで──、パレスチナ人に対してメタメッセージを発しているのだと言える。おまえたちの尊厳が冒されようと、私たちには関係のないことだ。おまえたちは私たちと平等な人間ではない。おまえたちがどうなろうと、それはこの世界にとって何ら問題ではないと。

第四章 存在の耐えられない軽さ

生まれてから自らには当たり前にあった人権を、与えられていない人がいること、そして、この世界がそういう世界であること、知ってしまった、けれど、知らなかったままでよかったとは思えない。

この本を読み終わってから、ちゃんとニュースが目に入るようになりました。

無視することはないようにしたい。

今度は動画を見ていこうと思うので、備忘録に貼っておく。

『新装版 魔女の宅急便 6 それぞれの旅立ち』 角野栄子(角川文庫)

とうとうラストになってしまいました。ちょっと寂しいです。

前巻から一気に時間が進んで、キキとトンボさんの、ふたごの娘・ニニと息子・トトが旅立つまで。

宝石みたいなグミ

正直、トトの方が感情移入して読めたので、ニニにイライラしっぱなしだったのですが、ラストの事件のときに手に汗握ってニニを応援してしまいました……。

「もう知ってしまったんだから」って無線で言われたときに心臓が掴まれたようにぎゅっとなりました。

キキの仲間はずれはイヤって感情、トトの我が家は特別だって意識があるのがイヤって感情、本当に丁寧に描写されていてため息が出ちゃう。

オーディオブックで聴いてきたのですが、たまに入る歌もしっかり歌ってくれていてすごかった。
字で読んだときに、どんな節なんだろう?と想像する楽しみもあるとは思うんですが、節がわかっているといつの間にか口ずさんでいることがあって楽しかったです。
特に「男の子はポケットにライオンを飼ってる♩」というのがお気に入り。

まだこの世にある不思議、これからを待つわくわくした気持ち、それぞれにある魔法の力。大好きな物語が増えてうれしい。

正直今はこのシリーズが好き過ぎて、ジブリの「魔女の宅急便」を見たときに複雑な感情を抱いてしまいそう……。

とはいえなのですが、そういえばこのオーディオブックを聴いて散歩しているときに、小学生の楽団がたまたま「ルージュの伝言」を演奏している場にばったり居合わせて、最高の気分になりました!

まだ読みたいよ〜!と思っていたら、特別編が3編あるらしい!でも、オーディオブックどころか電子書籍になってもいない。どうしよう……と考えています。

グミは「見習い魔女と魔法石の旅」という名前がついていたのでつい、買ってしまいました。味もキウイとグレープで好みでした!

『オオカミの知恵と愛 ソートゥース・パックと暮らしたかけがえのない日々』ジム&ジェイミー・ダッチャー(日経ナショナル ジオグラフィック)

知床に行ったときに、ツアーでオオカミについてのお話を聞き、それ以来、もっとオオカミのことを知りたいな……と思って購入してみた本。

テント生活を送りながら、6年間にわたりオオカミの群れ3世代とともに暮らした夫婦による記録。

寒くなってきたので、ポタージュにしました

群れで暮らす様子や、群れの中に階層があることなど、初めて知ることも多かったです。

ただ、筆者の愛が深すぎるゆえなのか……。
オオカミは「野蛮で獰猛な動物」だと誤解されて淘汰されてきた歴史があり、それを悲しんでいるゆえにオオカミは愛情深い動物なんだと力説していて、それはよくわかったのですが。
読めば読むほど「愛情深く賢い動物」でないといけないのか、と思ってしまって。
何度も何度もどれだけオオカミが愛しい動物か力説されるたびに、そうでなければ保護される価値がないみたいに思えてきて……正直、辟易してしまいました。

ただ生きているというだけではダメ?……と考えてしまって。そこが本意ではないとよくわかっているんですが。そういう価値基準を動物にあてはめているのもおかしいかな。
複雑な気分で終わってしまいました。

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