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現代の私たちも釈迦と同じ王宮に住んでいる

遺言・相続・葬儀・埋葬のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。
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仏教の開祖、釈尊がまだ釈迦族の王子であった頃は、王宮の中ではこの世の苦しみを味わったり、見たりすることがないように育てられていました。

ある日、王宮の東門から遊びに出かけると、見るに耐えないヨボヨボの老人と遭遇しました。
また、別の日に南門から出ると、道端に倒れている病人と遭遇しました。
また、別の日に西門から出ると、遺体を運んでいるお葬式に遭遇しました。

その時々に王子はお供の者に「あれは何者か?」とお尋ねになりました。お供の者は老人、病人、死人であることを伝えました。

それを聞いた王子は「可哀想だが、それはあの者だけがそうなのであろう?」と尋ねました。
するとお供の者は「老人も病人も死人も、全て人間であり、人間は生身である以上、老いの苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみを免れる者は、ございません」と答えました。

それを聞いた王子は考え込んで、もう王宮の外に遊びにいくどころではなく、お城へ帰ったそうです。

「四門出遊」と呼ばれる出来事です。

老人や病人の姿を見て、それがその人だけの問題である、と発言する姿はいかにも世間知らずに思われます。
しかし、現代に生きる私たちは、「言葉」や「知識」の上で老人や病人を知っていても「経験」として知っているでしょうか?

元気な老人は地域で暮らしていますが、ヨボヨボになればだいたい施設に押し込められてしまいます。
元気なうちは地域で暮らしますが、病気が重くなれば病院の奥に入れられてしまいます。
生きている間は回数が少なくても家族・知人が顔を見せに来てくれますが、亡くなればすぐに棺桶に入れられてしまいます。
棺桶に入った遺体の顔を見たり、触って冷たくなったり硬くなったりしていることを経験する人はほとんどいません。

現代社会に生きる私たちは、体験したくない「苦」を見えないところに押し込めています。
それは、王宮の中にいた釈尊とどこが違うのでしょうか?

現代では、生活の中で家電が改良されたりして、苦しみを取り除くように、便利になっています。
便利になるということは「思い通りになる」ということです。思い通りになることが増えると一方で思い通りにならないものに対していとも容易く怒りが湧き起こるようになります。

どんどん便利になっていっても、一向に思い通りにならないのが赤ん坊です。
昔の様々なことが不便な時代なら、思い通りにならない赤ん坊も仕方がないと割り切れるのですが、今や思い通りにならないのは赤ん坊だけです。
ともすれば、血を分けた我が子であっても殺意を込めた怒りが湧き起こるほどになってしまいます。

私たちは自らの「知恵」で便利さを追求してきました。そのおかげで文明が発達し、暮らしが善くなってきたことは間違いありません。
しかし、先ほど便利になったばかりに怒りが起きやすくなるというように、人間の「知恵」では全ての問題を解決できませんし、結局のところ本当の幸せを得ることができていません。
科学が発達して、私たちは、全ての問題を自らの知恵で解決できるという思い上がった心を持つようになっています。
仏教で「増上慢」と呼ばれるものです。

私たちよりも、もっと大きな視点から見ている阿弥陀様の「智慧」のはたらきを受けることでこうした問題に気づきませんし、その「智慧」を解きほぐして話してくれる人がいなければ理解できません。
それがお寺に仏法を聴聞しに行くということではないでしょうか。

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