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五百回の生を超えて

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先日お会いした方から「袖すり合うも多生の縁ですね」と言われ、一瞬戸惑ってしまいました。
あれ?「袖振り合うも多生の縁」じゃなかったっけ?

ネットで調べてみると、「袖振り合う」の部分のバリエーションが3種類。
「袖振り合う」「袖すりあう」「袖触れ合う」とありました。
「多生の縁」の部分のバリエーションが3種類。
「多生」「他生」「多少」とありました。
まあ、「多少」の字はよく指摘される間違いなので、実際の「多生の縁」の部分は2種類ですね。

ネットで意味を引くと、

「道を歩いていて見知らぬ人と袖がふれあう程度のことも(辞書によっては、「すれ違うのも」と説明)、前世からの因縁による。行きずりの人との出会いやことばを交わすことも単なる偶然ではなく、縁があって起こるものである。」

とあります。

袖がぶつかるのですから、そういう意味では「袖すりあう」「袖触れ合う」が合っているのかな、と思います。
袖を振るのはどんな時か、と考えるのですが、意識的に袖を振るシーンがそんなにイメージが湧きません。
人との別れの時にバイバイと手を振るのが、昔だと着物の袖が長いから、袖を振ることになるのかな、と思うのですが、それだと袖がぶつかる姿が想像できません。

「多生」「他生」は、前世があると考えれば、いくつもの前世を生きてきたという意味か、今の人生ではない前世、というところの意味だと考えられるので、どちらもあるのかな、と思います。

いくつか調べてみたのですが、結局、この組合せ一つに集約される、というものは無かったので、袖で3種類、前世で2種類あるので、6パターンが間違いではない、と言えそうです。
そう思うと間違いだと思って、うっかり他人を指摘できませんね。

仏教では、「同席対面五百生」という言葉があります。
お釈迦様が、今目の前に同席対面している人は、全く見知らない人でも、他の五百の生を何らかの形で共にしている、という意味です。

前世があったのかどうかは記憶が無いので何とも言えないのですが、この言葉から考えると、対面している人とこれまで五百回は出会えなかったのだということになります。
見知らぬ人と五百回だと家族だともっと多いのでしょうか。それとも家族でも五百回なのでしょうか。
生き物の一生はたいてい年単位でしょうから、五百回となると五百年以上の時間の経過もあることになります。

なかなか出会えない相手だからこその出会いを大事にしようと考えると、よく聞く「一期一会」という言葉になるかと思います。

ただ私は、出会いを大切にする、というのは、「しっかり向き合う」「軽く扱わない」という認識でいています。
特別な人として扱う、とまでは考えていません。
特別だと考えると自分の心の中の一部分を占めてしまい、いつか心のスペースが全部埋まってしまうのではと考えているからです。

それでも、出会った人としっかり向き合って、心を込めて挨拶や返事をすれば、互いに心が通い始めると思いますし、そうなれば記憶に残る存在になり、いつしか特別な存在になると思います。

初めてお出会いする方には心の中で「あなたと五百回の生を超えて、今、対面しています」と思えば、自然と心を込めた挨拶になるのではないでしょうか。

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