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突き放しているのでなく尊重している

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昨日の投稿の難波教行先生の講義の中では、「歎異抄」第二章での親鸞聖人の弟子への接し方についてお話がありました。

この第二章では、弟子がわざわざ関東から命がけで京都までやって来て、親鸞聖人が伝えた教え以外の教えや秘法、秘術があるのではないかと、尋ねに来ます。
しかし、親鸞聖人は以前から伝えている教え以外には何も持っておらず。隠していないと話されます。

そして章の一番最後で

「念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御計らいなり(念仏をとりて信じ申し上げようとも、またすてようとも、みなさんおひとりおひとりのご判断であります)」

と弟子達に告げられますが、この言葉に様々な解釈がなされています。
信仰が揺らいでいる弟子達に向けて叱責したり、突き放している言葉である、と書かれているものもあり、これはこれで一理あると私も考えていました。

しかし難波先生は、京都までやってきた弟子達に向けて「御こころざし」「御はからい」など丁寧な言葉で接されていることから、決して突き放しているのでもないし、強制しているのでもなく、相手を尊重する姿勢の中で応対されていると説明されました。

この話を聞いた時に、「自灯明、法灯明」の』話を思い出しました。
自灯明、法灯明については、2月16日のコラムで書いています。

お釈迦様は亡くなるにあたり

「自分を灯明とし、法を灯明として、他を灯明とすることがないように。自分を信じて従い、法を信じて従い、他のものを信じて従うことがないように。」

と話されましたが、この言葉と「面々の御計らいなり」が非常にダブる感じがしました。
一見するといずれも弟子達を突き放しているように聞こえるのです。

しかし、難波先生が言うように他の文章も含めて丁寧に読むと、突き放すのでなく尊重の姿勢であることが感じられます。
また、難波先生は「誰かが言っているから正しい、となると、その人を教祖と崇めていく、カルトにも繋がる思想だと思います。」と指摘されていました。

ちょうど私もある方から叱責、叱咤されるのでなく、愛を持って尊重して教えられていたことを感じた出来事があります。
昨年10月から半年間、一橋香織先生「笑顔相続道」というところで学んでいました。

先生が何者かも知らず、知人からのすすめに従ってエイや、と飛び込んで参加しましたが、初回の講義から生徒に向けて丁寧ながらも厳しい指摘だな、と感じる内容でした。
しかし、生徒が相続の業界でしっかりと生業として勤めていけるように、またお客様にとっても笑顔で相続を果たすことが出来るように、微に入り細に入りした内容を伝えてもらえた場所でした。

受講の回を重ねるごとに、共に学ぶ生徒にまた会いたい、と思い、一橋香織先生に自分の思いを話してみたい、と強く感じました。
修了にあたり先生からは「皆さんはわたしの同志である」と言われました。
先生を崇めて教祖にして集うのではなく、いただいた教えをもとに一人一人が独り立ちし、同じ志を持って協力し合う仲になっていく

そう感じられた時に初回に厳しく感じたことは我が身の甘さを指摘されただけで、指摘されたからといって上下関係を求められるわけでなく、ともに歩むための手ほどきを受けたのだ、と思いました。

歎異抄ではまた「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」と書かれ、親鸞聖人は周りの人々を「御同朋、御同行」と共に学び合っていく朋であると言われています。
私も「笑顔相続道」に入ったことにより、一橋香織先生をはじめ、共に学び、これからも一緒に学び続けていく「御同朋、御同行」を得た気がします。

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