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親子の縁を切る

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昨日は一日、休養日にして、京都国立博物館で開催されている「親鸞聖人生誕850年特別展 親覧ー生涯と名宝」展を可愛い可愛い嫁と見に行ってきました。

東本願寺や西本願寺だけでなく全国のお寺にある親鸞聖人ゆかりのお手紙や書物などが展示されていました。

「南無阿弥陀仏」「帰命尽十方無礙光如来」と書かれた光明本尊と呼ばれる掛軸には、光を表す線が中央から出ているのですが、可愛い可愛い嫁から「スゴく今時のデザインのポスターにも見えるよね」と言われ、なるほど、と感じました。
掛軸というと有難い骨董品のように受け取りがちですが、時代から考えればみんなの目を引くものでないといけなかったはずで、そう考えるとポスター要素が盛り込まれているのもうなずけます。

今回の展示の中に親鸞の長男である善鸞と縁を切った際に出したといわれる「善鸞義絶状」があります。

経緯としては、親鸞聖人は越後に流罪になり許されてからも関東で布教されます。
そして関東から京都に戻って20年ほど経つと、聖人の教えの解釈が歪んできたり、問題のある行動が見られるようになったため、事態の沈静化のために長男の善鸞さんが派遣されます。
しかし、関東の実力者である親鸞聖人の門弟は善鸞さんの言う事を聞かないため、善鸞さんは嘘を言って注目を集めようとしたり、鎌倉幕府を利用して実力者を弾圧しようとしたりしようとします。
関東から、さらに混乱が広がっていると報告を受け、親鸞聖人は善鸞さんに対して「もう父でもなければ子でもない」と義絶する書状を出された、と言われ、今回はその写本が展示されています。

真実はタイムマシンを使って現場を見に行くしか分かりません。
しかし、想像するに、鎌倉期に関西から来た若造の言う事を関東の実力者があっさり聞くとは思えません。
善鸞さんが親鸞聖人からの伝言やお手紙を用いながら伝えても、「これが自分たちのやり方だから」と頑なな態度を取られ、孤独感を強めていかれたのではないかとも思います。

また、現在言われているような誤った教えを流布したのでなく、真っ当な事を言っていたとしても、関東の実力者からすれば関西から教団トップの命を受けた人が来るというのは「シマ荒らし」のように感じて、京都の親鸞さんに「善鸞がおかしなことを言っている」と告げ口する事も考えられます。
親鸞聖人にしても、関東の様子を確かめに行くすべもないでしょうし、ご自身の生活の糧は関東の有力門徒からの寄進だったとも聞くので、関東の実力者の話を無碍にも出来なかったでしょう。

真実は新たな史料が出てこない限りは分からないでしょうから、あまり歴史で大きく取り上げられる事もありませんが、父と子、教団トップとトップの命を受け派遣された者、と考えると、このお手紙一通の背後になかなかの人間ドラマがあるな、と感じます。

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