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この世で最も優れた宗派は「羅宗」

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先日聞いた法話の中に笑い話がありました。
親鸞聖人と同じ時代に、明恵上人というお坊さんの話です。
明恵上人は、学問をよく修め、徳も高く、高潔であるとして世間で高く評価されていました。

その明恵上人のところへ「世の中には様々な宗旨がありますが、一番優れているのは何宗でしょうか?」と尋ねたら、明恵上人は即座に「羅宗(らしゅう)」と答えました。
合わせて「では、その宗派の経典は何でしょう?」と尋ねると「阿留辺経(あるべきょう)」と答えたという話があります。

「羅宗」や「阿留辺経」などというものは実在せず、これは、明恵上人が世間に対してはなった皮肉です。
「羅宗」とは、男は男らしく、女は女らしくという「らしゅう(らしく)」のことです。
「阿留辺経」は、こうでなければいけないという「あるべき様に」と言うことを表しています。

実際は、明恵上人は「阿留辺畿夜宇我(あるべきようわ)」という言葉を残されていますが、上の笑い話は上人がおっしゃった意味を変えて脚色したお話になっていて事実とは異なるようです。

ただ、この話自体が事実でなくても、ここから自分自身を考えていく要素があると思います。

「羅宗」や「阿留辺経」は、一見なるほどその通りだと思うかもしれません。
つまりは、正しいあり方をはっきりさせて、そのように生きなさいと、行動はこうあるべきだから、このように振る舞うべきだと、人間の正しいあり方(正解)を設定して、知恵と努力でそれに近づいていこうとする。
そして、それができたならば認められるわけです。
親鸞聖人は、法然上人に出会うまで二十年間、比叡山でそのような歩み方を徹底的になさり、結果、行き詰まってしまわれました。

私たちは「ああすべきである」「こうすべきでない」「せねばならない」「してはならない」と、決められた方向に近づくよう規制したり促進したりします。
その設定された正解以外は認められず、そこから外れると否定され矯正され、時には処罰され排除されます。
現代でも、学校教育の中で「道徳」として、国が人間とその関係のあるべき姿を設定して、それに向けて善悪や正邪を押しつけて来ている気がします。

浄土真宗が伝える阿弥陀仏の本願の世界は、正解の通りにできたかできなかったかを問いません。
お釈迦様が「天上天下唯我独尊」と言ったように、無条件に人間の尊さが認められる世界です。
これでなければ、こうしなければダメだと否定するのではありません。
むしろ正解と信じられていることを問い直すのです。

正解がないというと不安に思うかもしれませんが、誰もが捨てられることがない、どの人のどの人生も尊いと仏様から認められる安心の上に立っているのです。
その安心の中、自分に与えられた環境条件の下で、自分のできることを惜しまず出し尽くしていければ、いわゆる「充実した」人生になるのではないでしょうか。

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