第49回:超秘教入門11 | Pride And Joy『 秘教GO!GO!GO!』
何故、ここでは秘教とROCKのコラボなのかっ!
超秘教入門を読まれていて、疑問に思われた方もいるのではないだろうか。
何故、ここでは秘教のことを説いているのに、巻末にロックの曲が紹介しているのか・・・?
なるほど、これを読まれている方は誰もがそのように思うことであろう。
その疑問に答えれば、このような返答になる。
秘教の大系は「膨大且つ複雑なもの」である。
それを学ぶということは大変骨の折れるものだ。
しかし、それを学んだところで秘教の教えは宗教ではないので、心の拠り所となることもなければ現世利益を得ることもない。
また、ニューエイジとも異なるので、ヒーリングやアファメーションなどの技術を修得することもできない。
(なお補足として、初期の頃の神智学徒であるウィリアム・クアン・ジャッジは秘教のことを言葉の表現上「智慧の宗教」と呼んでいるが、秘教には「教祖、教義、儀式」の三つの要素が無いために、厳密には宗教ではないことは明らかである。)
要するに、秘教を学んだところで物質的な利益を重視する一般社会の中では、何の得にもならないものなのである。
はっきり言ってしまえば、秘教の勉強とはそういう意味ではつまらないものでしかないので、何かしら気を紛らわせる麻薬、もとい刺激が必要になるということだ。
即ち、そのつまらないであろう秘教の勉強を、つまらないと感じさせないための工夫が巻末の往年のロックの紹介ということになる。
要は音楽を流しながら秘教の勉強をしていけば、脱落することもなく秘教の知識を習得することができるだろうということである。
いわば秘教家の私ならではの「涙ぐましい老婆心」からきた気遣いだと思っていただけたら幸いである。
なので、ここで紹介するロックの活用法としては、まず始めに推薦動画のロックの曲を繰り返し聞きながら記事を読んでいただければ、やたら長い文章も飽きることなく読み進めることができるのではないだろうか。
(一応、その記事の内容や雰囲気に合ったロックを紹介している。)
因みに、私はここでの秘教とロックを合わせた勉強法を名付けて「Dr. Feelgood奏法」と呼んでいる。
意味としては、「小難しい勉強でも、脳に刺激を与え『これは娯楽だ』と勘違いさせることで何とか乗り切る」というようなものだ。
秘教を志す諸友の参考になれば幸いである。
そこまでして秘教を説く理由
私は先程、このように述べた。
「秘教を学んだところで、物質的な利益を重視する一般社会の中では何の得にもならない。」
そしてこのように言葉を繋げた。
「はっきり言って、秘教の勉強とはそういう意味ではつまらないものでしかない・・・(以下略)。」
では、何故、そのつまらないものであるはずの秘教を『超秘教入門』と銘打ってまでここで紹介しているのであろうか。
それは今、私達人類が存亡の危機に立たされているからだ。
2019年12月、闇の勢力は半世紀に及ぶ時を費やし企ててきたある計画を実行に移し、人類に総攻撃を仕掛けてきた。
しかし、この闇の勢力の恐るべき陰謀に気づいている人々は、人類の中のごく僅かに過ぎない。
この邪悪な陰謀に気づいた人々は、戦局を変えるべく世界各地で立ち上がり、身命を賭して戦い続けている。
彼らの戦いは常に孤独であり、誰からも理解と協力を得ることはできなかった。
それは大多数の人々が思考せず無意識のままに生き、社会の中で「眠れる羊」と化していたからである。
けれど、ここにきて孤独な戦いを強いられてきた人々にも、微かに希望の光が見えてきた。
闇の勢力に抵抗する世界各地の活動家たちは、オンラインで交流し、世界中で結束を固めることによって、この人類の危機に対して共闘できるようになったからだ。
(日本国内でもWCHジャパンや国民連合が結成された。)
とはいうものの、闇の勢力はその巨大な資本力で世界各国の政府とマスメディアを支配しているので、いくら目覚めた民間の人々が世界的な規模で連合したとしても、その数はあまりにも少なく、到底この悪に対して太刀打ちできるものではない。
また、これらの民間の抵抗運動とは別に水面下で動いている人々がおり、彼らは闇の勢力に金融面で経済的な損失を与えることに成功し、既に闇の勢力から勝利を収めている。
即ち、闇の勢力の当初の計画は崩れ去り、「人類を狩る者」から「人類に狩られる者」に転じつつあるが、これは悪事が露見されてからことなので、まだ先の話になる。
そして、秘教の世界では、現在人類が直面している聖書の黙示録的な事態に際し、「世界教師と大師方の降臨」を伝えている。
この世界には、邪悪な闇の勢力が存在するように、神聖な光の勢力も存在する。
それを秘教では「ハイラーキー」と呼び、地球上の全生命の背後に存在する霊的な政府である。
この組織を束ねる長が「マイトレーヤ」であり、同志の大師方と集団で間もなく人類の前に姿を現すという。
(ハイラーキーは、中世期の1425年から地上界へ顕現するために準備を整えてきた。)
彼らは高度なサイキック能力と光のテクノロジーを有しており、人間の能力を遙かに越えた超人達である。
その組織の長であるマイトレーヤは、1978年8月8日、英国人画家ベンジャミン・クレーム氏を通して、次のようなメッセージを人類に伝えている。
もし、この話が本当であれば、私達人類は驚異的な歴史の瞬間に立ち会うことになるであろう。
歴史を深く研究してみれば、歴史を動かしているのは人類ではないことに気づく。
それまでは為政者の都合によって隠蔽されていた真実が、ある日突然白日の下に晒され世に知られる、というようなことも起こり得る。
そして、それまで人々の間で常識と思われていたことが、その日を境に非常識になるのだ。
この青天の霹靂とも言える歴史上の出来事は神のみに成せる技であり、私達人類はその掌の上で踊らされているだけの存在なのかもしれない。
秘教的に「神」とは、地球上の全生命の進化を計画する存在である。
その下位に位置するハイラーキーは、神の計画に従い、全生命の進化を促進させていく実働部隊になる。
このように秘教の世界を紐解くと、宇宙は霊的な階層構造によって成り立っていることが理解できる。
日本の秘教用語では、それをハイラーキーまたはハイアラキーと発音し、言い表している。
世界教師と大師方の降臨。
私はクレーム氏のこの説が間もなく実現することを想定し、その時人類にとって必要になるであろう秘教の基礎的な知識を皆と共有するために、この超秘教入門シリーズをnoteで公開している。
なお、ハイラーキーが地上界に顕現する条件は、「ある一定数の人類が霊的に目覚めること」である。
(基本的にハイラーキーは人類を救いに来るのではなく、霊的に目覚めた人々が新時代を築く後押しをするために降臨してくるのだ。)
現在、闇の勢力は増上慢から墓穴を掘り、既に自らが起こした戦争に敗北しているが、まだ余力を残しており油断することはできない。
未だ、世界的に大多数の人々は眠ったままであり、もし闇の勢力の支配下にある各政府が強権を発動させれば、各地で抵抗運動を続けている活動家達の数だけではとても巨大なこの悪には敵うものではない。
そのようなわけで「眠っている羊」たちよ、もうそろそろ目を覚ましてくれないか。
今、悪と戦っている私達だけではさすがに人手不足なのだよ。
ROCKのビートで輪廻を学ぼうっ!
さて、少々前置きが長くなってしまったが、今回の本題に入ることにしよう。
ここ最近掲載した二つの記事、超秘教入門9|Loving you Sunday Morning モナド & パーソナリティーと、超秘教入門10|A Volte Un Istante Di Quiete 輪廻は四季の巡りのように)にて、秘教でいわれる「モナドとパーソナリティー」について説いてきたので、更にそれに関わる輪廻転生を考察していこう。
私達は普段、会話の中で「霊と魂」を混同しがちである。
例えば、「あの空き家に霊が出るんだって・・・。」とか、「人が死んだら魂が抜けてあの世に行く。」などといった具合である。
これは恐らく、霊魂といった言葉が日本語には存在するので、霊と魂という言葉をそのときの会話の雰囲気で使い分けているのであろう。
しかし、秘教では「霊と魂」を分けて考えている。
「霊」とは、私達一人ひとり、即ち一個人を形成するようなものではなく、宇宙空間全体を満たす「神のエネルギー」のことをいう。
そして「魂」とは、霊の媒体として働く機能のことをいうのである。
この魂は霊と結合することによって、より高度な霊的作用をもたらすことが可能となる。
(前回説明したように、モナドは三つのものによって構成されている。このアートマ、ブッディ、マナスは宇宙のエネルギーであり、それは霊的に高度なものであるため、地上界の人間に届くように三段階のエネルギー変換をして引き下ろしている。)
神智学(秘教)は、元々は東洋発祥のものであるが、十九世紀に西洋から東洋の叡智を普及させたため、国内で神智学を修める場合にも、外来の専門用語で「霊や魂」という言葉を表現している。
外来語で「霊はアートマ、魂はブッディ」と言い表わす。
このアートマ、ブッディに「知性のマナス」を加えた三重の存在を「モナド」という。
このモナドを広義の意味で魂と捉えることもあるが、厳密には魂とは狭義の意味でブッディのことを指している。
但し、ここでは輪廻転生に関わるモナドを広義の意味で魂として捉え、話を進めていく。
秘教的に輪廻転生を説けば、「死者が三つの世界を通過して再び地上界に戻ってくること」をいう。
この三つの世界とは、物質界、アストラル界、メンタル界の諸界を指している。
これは人が一度の輪廻の過程として、三つの死を体験しなくてはならないということだ。
では、人が体験する「三つの死」とは何か。
人が寿命を迎え息を引き取ると、肉体から半物質のエーテル体が流れ出て、エーテルの海に帰っていく。
これが人にとっての「第一の死」に当たる。
即ち、「物質界での肉体の死」を意味する。
この半物質体であるエーテル体は、物質の肉体と他の二つの霊的諸体であるアストラル体とメンタル体を結びつける役割を果たしており、いわばこれらのものを繋ぐ霊的なパイプラインとしての機能も有している。
なので、このエーテル体が人の体から流れれば、肉体と他の霊的諸体を繋ぎ止めるエネルギー体が無くなるので、自然に肉体を脱ぎ捨てることになる。
余談になるが、我が国の神道でいわれる「死穢(死の穢れ)」とは、エーテルの海に向かって「死体から流れ出たエーテル」のことを邪気として捉え、これを忌み嫌うのである。
そのため喪に服すのは、死穢のエネルギーが薄れゆくのを待つ期間であり、一般的に神道では五十日祭を終えた翌日を忌明けとしている。
次に、人は肉体を脱ぎ捨てるともう物質界に留まることができないので、アストラル界へ移行し、アストラル体で暮らすことになる。
アストラル界は想念の世界なので、その人の生前の執着心が自然と薄れていき、自身の思いの念に囚われなくなったときにアストラル体を脱ぎ捨て、「第二の死」を迎えるのである。
即ち、「アストラル界でのアストラル体の死」を意味する。
そして、この段階で漸くメンタル体になり、秘教の世界でいわれるメンタル界の「デヴァチャン」、即ち、キリスト教でいう天国へ行く。
ここは神が与えし完全な癒やしの空間であり、生前に地上界で体験したあらゆる負の体験からもたらされた苦しみから解放される世界である。
やがて時が来れば、この居心地の良い至福の空間からメンタル体を脱ぎ捨て、地上界へ戻って行くことになる。
これが人の「第三の死」に当たり、即ち、「メンタル界でのメンタル体の死」を意味する。
(メンタル体は二つあるが、ここで記しているメンタル体は下位メンタル体であり、上位メンタル体ではない。後者の方は「コーザル体」ともいい、これを輪廻で脱ぎ捨てることはできない。これは解脱し超人になる時に破壊される。)
このように、人は三つの体を脱ぎ捨て三つの諸界を通過し輪廻をするが、肉体、アストラル体、メンタル体を脱ぎ捨てるということは、この「三つの諸体であるパーソナリティーが輪廻をするのではない」ことが理解できる。
では、輪廻とは人の「何が」輪廻するのであろうか。
それは秘教では先に述べた「アートマ(意志)、ブッディ(愛)、マナス(知性)」であり、この「三重のモナドが輪廻する」のである。
このモナドを要約すると、「神性の三重を反映する純粋霊」ということができる。
これをキリスト教では、父(アートマ)、子(ブッディ)、聖霊(マナス)の「三位一体」として「神の神性の三層」を表わしている。
(なお、現在のキリスト教では輪廻を否定しているが、ニカイア公会議が開かれるまで、初期のキリスト教では教義の中に輪廻が存在していた。今でも新約聖書を紐解けば、至る所に輪廻についての記述が散見される。)
輪廻はROCKだっ!ボクらの魂は進化し続けるっ!!
このように、魂であるモナドは輪廻する存在として、「地上界で自身が進化するための媒体」を必要とする。
それが肉体、アストラル体、メンタル体の三つの諸体であり、これを秘教では三つ合わせて「パーソナリティー」と呼ぶ。
即ち、簡単に言えば、パーソナリティーとは「肉体人間そのもの」を意味するのである。
なお、魂が再び地上界に転生してくる時、輪廻の過程の段階において過去世で脱ぎ捨てられたアストラル体、メンタル体が「引き寄せの法則」により、また元の持ち主のところに戻ってくる。
そして、それを過去世の蓄積された「感情と思考のデータ」として身に纏うことで、更にその感情と思考のデータを今生で引き続き更新していくことになるのだ。
過去世からのデータが各霊的諸体に記録されているということは、早い話、それは人の行為の蓄積であるので「生前積んだカルマの蓄積」ということになり、その刻まれたデータは消すことも書き換えることもできない。
そのため、魂は生前自らが作りだしたカルマの課題に、否応なく次の転生で取り組まなくてはならないのだ。
(カルマとはサンスクリット語で「行為」を意味し、その善し悪しに関わらず、「自身がしたことは全て自身に還ってくること」を意味する。)
では、何故、私達は永劫とも思える輪廻を繰り返す必要があるのか。
それは「魂がより高度な進化を求め続ける存在」だからである。
ならば、私達の魂はいつまで輪廻をし続けなくてはならないのか。
答えは「解脱を果たすまで」。
私達は人間として第五段階のイニシエーションを経て解脱し、超人になるまでこの地球上で輪廻をし続けなくてはならないのだ。
しかし、この宇宙では超人になることが霊的進化の最終目的ではない。
高度な霊的進化を遂げた超人達ですら、未だ進化の道を歩み続けている。
そして、その歩みは彼らが「神」になるまで延々と続けられる、たゆまぬ霊的進化の行程なのだ。
仮に、彼らが高度な霊的進化を遂げ神になったとしても、神の世界にも段階がある。
その段階とは、地球の神、太陽系の神、銀河系の神というように、神もまた無限といえる進化を続けていく存在なのである。
もちろん、私達凡夫には、このような気が遠くなる大宇宙的な話には今生縁が無いので、人間が輪廻に関わる範疇における話に留めておこう。
神に段階があるように、私達人間にも言うまでもなく霊的な段階がある。
それを「霊格」と言うが、秘教ではこの人間の霊格を大まかに五つの段階に分けて考察している。
各五つの霊格からもたらされる人格を表にして示すと、以下の図2になる。
残念だが、現代では③教養人の魂に当たる一般人の段階に到達している人が非常に少なく、旧約聖書のソドムとゴモラではないが、倫理道徳観が欠如した暗黒時代と言わざるを得ない。
そして、この五つの霊格の違いにより、次の転生までの各霊的諸界での滞在期間が異なってくる。
それを表にして以下に示すと、図3になる。
この図2の「秘教で説かれる五つの霊格の概要」と図3「5つの霊格による輪廻の位相と再生までの期間」は、かつて竜王文庫から出版されていたジナラジャダーサ著の「入門神智学」の31~32頁に記されている表を自己流に要約し、加筆訂正したものをここに掲げてみた。
要するに、人が霊格を上げていくには、人間として成長しなくては魂が進化しないわけである。
人間として成長するには、言うまでもなく目的意識を持つ必要があり、それに応じた知識や技術を身に付けそれを社会の中で実践し、積極的に人生経験を積んでいかなければ実力は身に付かない。
しかし、実力を身に付けたとしても、それで他者を見下し驕り高ぶっていてはマイナスのカルマを積むだけであり、逆に力を付けたことによって進化ではなく退化の道を歩むことになりかねない。
そのような傲慢に陥らないためには、人は日々内省し、自らの人格形成を心懸ける必要がある。
かの、ギリシアの大哲学者ソクラテスもこのように言っているではないか。
「汝、自らを知れ」と。
そして自らを知る上で、社会の既成概念に囚われない「ロックの自由な精神」で事に臨んでいくことが肝要である。