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第48回:超秘教入門10|A Volte Un Istante Di Quiete 輪廻は四季の巡りのように


魂は地上界の船を必要とする

アールデコが生んだフランスの画家、ルイ・イカールが描く見目麗しい女性達の姿は一際人目を引く。
冒頭に掲げた彼の作品、「ヨットレース」(1936年)の構図も、とても斬新だ。

今回は、このヨットレースの三人の女性達の姿を借りて、もう一度パーソナリティーについて振り返ってみよう。
(パーソナリティーについては、過去の記事、第46回:超秘教入門8|二重人格 霊的文化の輸入に伴う言語変換の難しさを参照されたし。)

魂が地上界に転生して、より進化向上を目指す上で必要とするものが、このパーソナリティーである。

パーソナリティーは、肉体、アストラル体、メンタル体の三つの諸体を合わせて肉体人間と見なすので、神智学では「三重の乗り船」と例えられることもある。

このルイ・イカールの作品「ヨットレース」には、船の上に美しい三人の女性が描かれており、この一人ひとりの女性を肉体、アストラル体、メンタル体と捉えてパーソナリティーと見ることもできるであろう。

図1:モナド & パーソナリティー

前回の記事、第47回:超秘教入門9|Loving you Sunday Morning モナド & パーソナリティーでは、神智学でいうモナドについても説いたので、今回はより詳細にモナドの考察をしていこう。

「モナド」とは、簡単に言えば人間の魂のことであり、また神智学ではこれを「個性」ともいう。
これはアートマ、ブッディ、高級マナスの三つから成り立っているものである。

概略的に言うと、このモナドは人間の魂に該当するので、これを「高級我こうきゅうが」として捉え、その下に位置するパーソナリティーは、人間が地上界で活動する肉体人間に該当するので、これを「低級我ていきゅうが」として捉える。

ここまでは前回取り上げた、モナドとパーソナリティーについての要約になるが、ここからは今回の本題に入ることとしよう。

このモナドを構成する三つの「アートマ、ブッディ、高級マナス」には、それぞれの霊的な本質がある。

それを簡単に示せば、アートマは「霊」であり、ブッディは「魂」、そして、高級マナスは「知性」ということになる。

では、このアートマの「霊」とは何か。
霊とは「この宇宙に偏在する純粋なエネルギー」ということになる。
即ち、宗教的に言えば「神のエネルギー」と捉えればよいであろう。

ただ、この「霊」というエネルギーはあまりにも高度なので、地上界の肉体人間であるパーソナリティーには直接届かない。

そこで霊は、地上界にそのエネルギーを届かせるための媒体を必要とする。
それがブッディといわれる「魂」である。

しかし、この「魂」の段階でもまだ高度な段階なので、霊のエネルギーはやはり地上界の肉体人間であるパーソナリティーには直接届かない。

それで魂は、高度な霊のエネルギーを自身の領域では充分に引き下げることができなかったので、そのエネルギーをより下げるべく次の媒体を必要とする。
それが、高級マナスという「知性」である。

このように、モナドは三つのものによって構成されているが、それは全て宇宙のエネルギーであり、その高度な霊のエネルギーをアートマ、ブッディ、高級マナスという三段階を経てエネルギーを変換して引き下げ、地上界の肉体人間、即ちパーソナリティーに届くようにしているのである。

ルイ・イカール / サマードリーム(1934年)

「夏の夢」と題されたルイ・イカールの
作品ではないが、人の人生もひとときの
はかない夢のようなものなのかもしれない・・・。

目に優しい緑の草原の中で語り合う三人の
女性達は、姉妹なのか友人達なのかはしれないが、
彼女達の人間関係も今だけのものであり、
もしかしたら通りすがりの通行人のような
関係性なのかもしれない。

それは、魂は学ぶために地上界に輪廻し、
「人生のあらゆる膠着状態を良しとはしない」
からである。

そのため、魂は今まで親しく交際してきた
人間関係ですら平気で壊し、
入れ替えることさえ辞さない。

人は「永続的な幸福」ともいえる人間関係を
求めるが、東洋の叡智を説く神智学では、
それを「マーヤ」、即ち「幻影」であるという。

海に浮かぶ蜃気楼が、
その姿をいつまでも保つことができないように、
この宇宙の全ての事象は変化し続け、
それが「魂が果てしなく進化し続けること」に
繋がっていくのである。

私達、地上界の「各パーソナリティー」は
人間関係に限らず、今生における全ての変化を
恐れずに受け入れていかなければならない。

それが魂における進化であり、
例え苦しみが伴うものであったとしても、
「何事にも執着しない」ということが
人生における真の幸福の鍵になるのであろう。

アニメで学ぶ、モナドとパーソナリティーの関係

人間はモナドが存在しなければ、地上界におけるパーソナリティーはただの物質でしかない。

俗に言えば、モナドである魂が存在しなければ、肉体はただの「肉塊にくかい」でしかなく、アストラル体は「感情」、メンタル体も「思考」といったパーソナリティーに備わった二つの機能にしか過ぎない。

これを往年のアニメ作品で例えるなら、モナドはガンダムのパイロットであるアムロ・レイであり、パーソナリティーはモビルスーツのガンダムということになる。

大河原邦男 / 機動戦士ガンダム
ガンダムの内部図解の資料©創通・サンライズ

劇中、ガンダムは連邦軍が開発した最新鋭のモビルスーツであるが、アムロ・レイというパイロットが存在しなければ、指一本すら動かすことができない。

ガンダムにとっては、このアムロ・レイという魂(モナド)が意志を持ってコックピット内に存在することにより、ガンダリウム合金でできたパーソナリティーという三重の機体を初めて動かすことが可能となるのである。

これと同じことが人間にも言えて、モナドがあるからこそパーソナリティーが生命を得て、地上界で活動することができるのである。

このように、往年のアニメ作品を例えに用いてモナドとパーソナリティーの解説を試みれば、神智学でいう小難しい霊的な理論も理解しやすくなるのではないだろうか。

なお、余談になるが、劇中の後半ではアムロの意識が拡大し、ニュータイプとして急速に進化したことにより、ガンダムほどの高性能モビルスーツでも彼の反応速度についていけなくなってしまう。

これと似たような現象が、霊的な世界においても起こる場合がある。
それは「霊的な意識の拡大に至った者の身体に異変が起こる」という現象である。

意識の拡大により、その者の周波数は以前よりも高くなり、それによって三重のパーソナリティーに流れ込むエネルギーの電圧が上がるようになる。

そして、この意識の拡大によって以前よりも内的には進化したものの、肉体の器は以前のままなのでこの意識の進化に追いつくことができず、どうしても健康面に不具合が出てしまう。

この肉体の不具合は個人差があるので一概には言えないが、主にこのような症状を挙げることができる。

頭痛、眼痛、眩暈めまい、耳鳴り、下痢、発汗はっかん、関節痛、体内の振動、脱魂だっこん、などを挙げることができる。
(ごく稀にではあるが、一度に複数の症状に襲われ、死にかけることもある。)

また、エネルギーが上がるということは、高位のチャクラのアジーナやサハスラーラにエネルギーが集中するので、額の変形や頭頂部の隆起といった現象が伴うこともある。
(チャクラとは、ヨガでいうところの霊的なエネルギーセンターを意味し、ここで記されたチャクラのアジーナは眉間にあり、サハスラーラは頭頂に存在するものである。)

そして、これらの現象が日常的に身に起こるようになった場合は、基本的に対処する術が無い。

私の記憶が確かなら、アグニヨガでは以下の三つの対処法を伝えている。

① 根性で耐える。
② 自己暗示を掛け、苦痛の制御を図る。
③ ハイラーキーの大師にエネルギーのコントロールを依頼する。

最早、①、②は論外であり、①の場合はただ耐えるだけで苦しみから逃れることができず、②の場合は自己暗示が成功すれば難を逃れることができるだろうが、失敗すればただひたすら苦しむことが約束されている。

③は更に論外で、一般人がハイラーキーの大師と直接お会いできる僥倖ぎょうこうなどあるはずもなく、仮にそのような僥倖を得ることができたとしても、彼らは高波動を発しているため、逆にエネルギーが上がり倒れてしまうことは明らかである。

なので、先程「基本的に対処する術が無い」と述べたのである。

この「意識の拡大」を、ガンダムの劇中では「ニュータイプ」という言葉で、その霊的な概念を表わしている。

アムロの意識の拡大により、ガンダムが彼の反応速度について行けなくなったのは、霊的に言えば「人間の三重のパーソナリティーが、周波数の上がったエネルギーに対応できなくなった状態」と酷似している。

にわかに信じがたい話にも聞こえるが、現在、地球上では一部の人々の間で、霊的な意識の拡大がもたらす体調不良が起こっていることも事実である。

しかし、このような体調不良を経験している人々は、医師に診て貰っても異常が見つからず、原因不明のため他の医療機関を紹介され、結局「たらい回しにされる」だけという傾向が見られる。

そして、本人も原因不明の病気を抱えてしまったという結論に至り、問題の解決には繋がらないのである。

ルイ・イカール / 浅瀬(1926年)

お洒落な服装の女性が、浅瀬を渡ろうとしている。
彼女はヒールを履いているので、慎重さを少しでも
欠いたら水の中に落ちてしまう。
せっかくお洒落をしてのお出掛けなのだから、
ずぶ濡れになってしまっては台無しだ。

「慎重さ」
この女性のように、私達輪廻してきた各魂は、
長い地上生活の中で幾度となく慎重さを
求められるような場面に遭遇する。

その時、各自必要になるのが「明晰な判断力」だ。
この明晰な判断力は、日々の生活の中での
「危険予知」にも繋がっていく。

言い換えれば、人は常に危険予知ができるように
なっていれば、自ずと人生上で慎重さが求められる
場面に遭遇しても対応できるということだ。

けれど、人は時としてこのようなことを口にする。
「皆がそれをするから、私もする。」

もし、皆が間違った判断をしていたとしたら、
その人はどうなってしまうのだろう・・・。

私達は成人式を迎え、読んで字の如く成人に
なれたのだから、人生上で何かしらの決断を
迫られた時には「人任せにする」のではなく、
自らの「強い意志と覚悟」を持って、
問題に立ち向かいたい。
神はそのために、人に自由意志を与えたのだから。

モナド「三重の純粋霊」の更なる考察

神智学でいわれるこのモナドの概念はとても複雑なものなので、凡夫の私などでは簡単には言い表すことはできない。

けれど、苦難を伴うことを覚悟し、この難易度の高いモナドについて復習の意味も兼ねて、以下の図2でもう少し言及してみたい。

図2:モナド・三重の純粋霊

アートマである霊は、私達一人ひとり、即ち「一個人」を形成するようなものではない。
それは宇宙空間全体を満たす「神のエネルギー」である。

ブッディである魂は、アートマの媒体として働くものである。
このブッディは、アートマと結合することによって神聖な組み合わせとなる。
これを「アートマ・ブッディ」という。

これと同じように、高級マナスである知性もブッディの媒体として働くものである。
この高級マナスも、ブッディと結合することによって「ブッディ・マナス」になる。
これを「マナス・タイジャサ」といい、高級マナスがブッディと結合することによって、光輝こうきを放つようになる。

この神聖な組み合わせである「アートマ・ブッディ」に、高級マナスの「知性と自意識」が結合すると、電流が流れるようにパーソナリティー(肉体人間)に霊的な作用をもたらすことができる。

そして、高級マナスがアートマとブッディに結合している状態を「霊的自我」と言うが、これが「真の個性」、即ち「人間の神聖な部分」になる。

なお、神智学では、高級マナスのことを「コーザル体」とも言い、またこれを「自我」と言い表すこともある。
この三つは全く同じものを指しているので、留意されたし。

以上がモナドについての簡単な解説になるが、神智学で使われている専門用語を一つ取ってみても、目を背けたくなるほど複雑なものである。

しかし、高次のオカルティズムである神智学を紐解くことによって、これまで精神世界では曖昧とされていた部分に科学的な光を当てて、より明確にすることができる。

霊的な世界では、しっかりとした理論武装をしていなければ、いつ自身が闇に陥るか分からない。
そのため、神智学のような信頼できる本物の霊学を身に付けておく必要がある。

ただそれには、かつてのスポ根漫画ではないが、努力と根性が求められるのは言うまでもない。

ルイ・イカール / 白鳥(1937年)

二人の若い女性が二羽の白鳥と戯れ、でている。

「愛でる」とは、美しいものを好み
それに意識を向けることなので、
感情からもたらされる働きである。

これを神智学的に言えば、
「アストラル体からもたらされる作用」が
愛でるということになる。

このように、私達には感情があるため、
喜怒哀楽の念が心の中から自然に生まれてくる。
即ち人間は、感情の生き物なのである。

けれど、どれぐらいの人達が、本来の自己の感情に
気付いて生きているのだろうか。

資本主義末期のこの時代は、
苛烈な競争社会を生み出した。
そのため私達は休む暇も無く、ただ働き続ける。
その結果、自己の心を見つめるゆとりさえ
失ってしまった・・・。

けれど、人が霊的に進化するためには、
「自己の心を見つめる習慣」を
持たなくてはならない。

人は「何となく生きている」だけでは、
霊的に進化しないからだ。

このような時代であっても、社会の中には
依然として人格者も存在する。
彼らは日々忙しくとも、自由意志を強く働かせ
内省を怠らなかった偉大な人達だ。

本来の自己の感情に気付くとは、
人が「生きていることを実感する」ことであり、
それは人が「真剣に生きている証」でもあるのだ。

まだ、モナドの話は終わらない・・・。

さて、モナドの話は「もうお腹いっぱい」と言ったところだろうが、まだ、ここではモナドの話を終えることはできない。

何故なら、モナドは人の「輪廻転生」に関わる重要なものでもあるからだ。

世間一般には輪廻と言うが、肉体は必然的に死ねば滅びるものである。
では、いったい人間の何が輪廻するのであろうか。

これを宗教家などは、肉体ではなく「魂が輪廻する」とお決まりの台詞せりふのように言うのであろう。
確かに、魂が輪廻すると言えばそれらしく聞こえるが、そのような人々が言う「魂」とは、具体的には何を指しているのであろうか。

我が国の古神道でも、「一霊四魂いちれいしこん」というものがあり、これが魂について触れているものだ。
(一霊四魂とは、四魂の荒魂あらみたま和魂にぎみたま幸魂さきみたま奇魂くしみたま、と一霊の直霊なおひのことを言う。)

しかし、古神道の一霊四魂は流派によって諸説があるので、この説が正しいなどと断定することはできない。
まして、古神道には一霊四魂以外にも、一霊三魂や一霊二魂説まであるのだから、魂の理解がより難解なものになっている。

この魂について、神智学では先に述べた「モナドという霊的な三つのエネルギーの総体」として捉えている。

神智学では、肉体人間を三重のパーソナリティーと捉えるが、このパーソナリティーが死を迎えた時に、「データとしての意識」が次の輪廻の準備に入ることを意味する。

この「データとしての意識」が神智学でいうモナドということになり、厳密には「高級マナスといわれるコーザル体の中に魂が収まっている」ので、これが輪廻する魂ということになる。

では、このコーザル体が「魂」ならば、西洋のニューエイジなどでよくいわれる「ハイヤーセルフ」はこのコーザル体なのかと言えば、そうではない。
(ニューエイジャー達は本当に高度な領域であるアートマまで意識を高めてハイヤーセルフと接触できるほど、霊的に進化できているのであろうか?彼らは「自称チャネラー」なので、正直、私には疑問である。)

神智学では、ハイヤーセルフは「高級我のアートマ」であるといい、コーザル体は輪廻する意識としての自我に過ぎない。

魂を収めたコーザル体は「輪廻する本体」にあたり、転生ごとにその人が経験してきたあらゆるデータを蓄積し、また次の輪廻にそのデータを移行して更なる霊的進化を促進するべく、人が解脱を果たすまでその作業を延々と繰り返すのである。

人の人生に春夏秋冬があるように、人の輪廻にもそれぞれのカルマに応じて、四季の巡りがあるのである。

ルイ・イカール / 至上の喜び(1929年)

二匹の愛犬を連れた女性が風に吹かれ、
飛ばされないように素敵な帽子を押さえている。

ルイ・イカールは、自らのこの作品に
「至上の喜び」と題したので、絵の中の美しい
女性は自然界の心地良い風を受けているのだろう。

今、私達人類も暗黒期を抜けて、
光の差す新時代へ移行しようとしている。

神智学では、一つの時代を約2160年として捉える。
私達の暮らす地球は太陽系に属しており、
その太陽系は黄道帯こうどうたいを廻っている。
黄道帯は西洋占星学では12の宮に分けられ、
太陽系が黄道帯の12の宮を一周するのに
約2万6千年掛かる。

太陽系が黄道帯の12宮を通過する時に、太陽系は
各宮の霊的なエネルギーの影響を受ける。

人類は過去2千年パイシス(双魚宮そうぎょきゅう)の
エネルギーを受けていた。しかし、その
パイシスのエネルギーは1625年に後退し始め、
アクエリアス(宝瓶宮ほうへいきゅう)のエネルギーは
1675年から地球上に流入し始めている。

アクエリアスのエネルギーは、
人類の意識を統合と同胞愛へといざなうという。

人類は暗黒期の悲惨な経験から、新たに
秩序と平和に彩られた人種間の軋轢の無い
新時代を築き上げていくだろう。

そして、神智学では「各時代の始めには、霊的に
偉大な教師が必ず地上界に派遣される」という。

実は新時代を前にした現在、霊的に偉大な教師が
既に地上界に派遣されてきている。

それが「マイトレーヤ」といわれる存在であり、
彼は2千年前に「ナザレの人イエス」を、
霊的に背後から導いた「キリスト」といわれる
霊的な組織、ハイラーキーの長である。

彼は、アクエリアスの時代に向けて、
同志である他のアデプト達と共に、集団で
人類の前に現れる準備ができているという。

もし、それが叶えば、アトランティス文明滅亡から
9万8千年の刻を越えて、人類とハイラーキーの
共生時代の再来となる。

推薦動画:Locanda delle Fate ロカンダ・デッレ・ファーテ A Volte Un Istante Di Quiete

Locanda delle Fate / ロカンダ・デッレ・ファーテ

彼らは1977年にデビューし、高度な技術力に
裏打ちされた素晴らしい楽曲のアルバムを
たった1枚だけ残して姿を消していった「幻」とも
いえる、イタリアのプログレバンドである。

このようにバンドの活動期間も短かったため、
残念なことに本国イタリアやヨーロッパでも、
彼らの存在はあまり認知されてはいない。

80年代後半になってから、この実力派の
イタリアのプログレバンドの存在に気付いたのが、
世界でも感性が非常に鋭いといわれている
我が国のオーディエンス達だった。

ここから彼らの存在が他の国々のプログレ好きの
オーディエンス達にも認知されるようになり、
77年にデビューした彼らは、今では
「最後のイタリアンプログレ」といわれる程、
高い評価を得るようになった。

70年代後半になると、かつて人気を博した
プログレブームは過ぎ去り、そのような時代に
彼らは良質な一枚のアルバムだけを残し、
ロックシーンから去って行ったことから、
最後のイタリアンプログレと称されるのである。

今回の記事にルイ・イカールの絵をはめ、
たまたまBGMにこの曲を流していたら、
とても合っているように感じたので、
ここで紹介してみることにしてみた。

なので、70年代のイタリアのバンドに
興味を持たれた方は、是非、聞いてみてっ!

空間を浄化するような澄み渡る旋律の中に、
人が潜在的に求める不思議な温かみを
感じさせる、とても素敵な曲だから。