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ラーメンが飯テロなら育児日記は子テロか

これは私のインスタグラム。ラーメン率の高さが特徴だ。ほかのSNSでもそうだが、飯写真を挙げると、海外在住や仕事に忙殺される友人から、こんなコメントがつくことがある。

飯テロ。
生半可に「テロ」という言葉を採用する点には賛成できないが、いかなる悪意もない。与え得る不愉快な印象もない。むろんコメント主は、本気で飯に枯渇している訳ではない。

一方で、最近、同年代が生殖適齢期に達し、SNSでは育児日記が目立つ。妊娠検査薬<陽性>を写真加工し、妊娠アプリをスクショし、オムツで文字を描き、それらを共有する感性にも驚くが、これまでSNSを使わなかった人までもが、ここぞとばかりに報告してくるのが印象深い。出産をピークに分泌される脳内物質・エンドルフィンに起因するのだろうか?
私自身はSNSをあまり使わないので、その写真もたまに拝見する程度なのだが、自分がSNS好きで不妊治療中だったらと、少ない想像力で考える。

見なきゃ良い。
本当にそれだけだろうか?SNSにおける同調圧力の背景には、世間的な風潮があろう。生物としてDNAのコピーを宿命づけられ、家族単位で社会を構成することを課された人間にとって、結婚して出産して仕事もして、というのがあたかも正解のようにされてしまうのは、いささか仕方ない。
しかし、それを身近な友人に写真つきでプロパガンダされてしまっては、できない自分に不甲斐なさを感じる人も居るだろう。

たとえば、もし慢性的な飢餓状態に陥っている友人がいて、その人に、飽食時代を象徴するような食事の写真を絵はがきにして送るだろうか?否、である。しかし私は、インドやバングラディッシュで知りあった、貧困にある人のいるFacebookに、そういえば平気でラーメンの写真をあげた。やはり、省みれば飯テロだ。私はこれが悲しい。
同様に、出産・育児写真をSNSに投稿しつづける人たちは、6組に1組と言われる不妊に悩む人々への“子テロ”になるやもしれぬという、いくばくかの想像力を働かせられるだろうか。
ましてやラーメンは多くの日本人がその気になれば食べられるが、子どもとなるとそうはいかない。あたりまえだが、望んでなくて得ないのと、望んでも得られないのは大違いだ。

何故こんなことを、非当事者の私が取り沙汰するかというと、先月、不妊治療に関する友人の悩みを聞いたからだ。友人は43歳。昨年結婚した。年齢もあって、親戚や周りからも直接的な「結婚→出産」的な圧力はほぼない。旦那と飼い犬の話をし、幸せそうに見えていた。それでも、月に80万もかけ、出口の見えない不妊治療に臨む。
彼女は、連発される子テロが辛く、人生で初めて、SNSをミュートしたという。

…ということを、先日、とあるコラム記事を読み思い出した。トレイルランナー夫婦の言葉が、妊活どころか婚活も程遠い私の身にも沁みる。

子どもを望んでいてもさまざまな理由で思うようにならない人々もたくさんいる。それなのに何となく世の中全体で子どもを持つことが幸せの大前提という空気感が膨らんでいるような気がしてならない。こうした風潮には息苦しさを感じるし、違和感もある。

それにしても昔話や古典にも不妊の話は尽きず、人間とは変わらぬ悩みをかかえる続けるものよ。生物としての宿命感には抗えずとも、せめてSNSが余計な同調圧力としての“子テロ”にならないような、「懐の深い社会」になることを、私も願う。

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